管工業健保組合の理事に就任

投稿者:落合智貴
当社が加入している健保は「管工業健康保険組合」です。お茶の水に建物があり、社員の健康診断はそこで実施しています。この組合の健康診断施設はとても充実しており、定期健診では、血液検査・尿検査・レントゲン・心電図・バリウム(一部年齢制限あり)などがあり、オプションとして大腸がん検診・腹部エコー・眼底圧・歯科検診なども安価にやってもらえます。当社ではオプション費用も会社負担にて実施しています。
かつては当社の社員でも初期の肺がんが見つかり命が助かったケースが3例ほどありました。そこまで深刻ではなくても、血圧が高いとか、脂肪肝があるとか、コレステロールが高いとか、様々な警告が出されますので年に一度必ず社員に受診させるようにしています。
健康管理も会社の重要な役割の一つということですね。

管工業健保
この度私は管工業健保組合の理事に就任しました。
管工業健保は昭和33年(1958年)に設立され、現在では約800社、被保険者数は63,000名を超える規模になっています。当組合は設立に関連する団体が4つあります。東京都管工事工業協同組合・東京空調衛生工業会・東京管工機材商業協同組合・関東甲信越保温保冷工業協会の4つの団体がこれにあたり、この中から理事が選ばれる慣例になっています。私は昨年、東京管工機材商業協同組合の理事長になりましたので、今年5月の管工業健保組合の役員改選で推薦され、18名の理事の一人になりました。

管工業健保組合は被保険者の平均年齢が若く、年収も比較的高いとのことで、保険料収入が年400億円を超え、黒字の優良健保と言えるようです。
保険料の決定など、理事会では重要な決議が行われます。
日本の高齢化など社会問題に直結する議論に加わることになろうかと思います。
これを機に新たな学びがあれば嬉しく思います。

高橋是清邸を見学

投稿者:落合智貴
都立小金井公園の中に「江戸東京たてもの園」があります。
大人400円の入場料を払うと見学することが出来ます。
江戸時代末期から昭和初期にかけて使われていた建物が移築・再現されています。
名門旧家を復元した『西ゾーン』、高橋是清邸などがある『センターゾーン』、昔の商店や銭湯が立ち並ぶ『東ゾーン』で構成されています。

【東ゾーンでは当時の小便器を見ることが出来ました。】
江戸東京たてもの園
高橋是清は生後まもなく仙台藩の足軽に養子に出され、アメリカ人のヘボン塾で学び、海外留学するも、奴隷のような扱いを受けます。帰国後は文部省に入省。英語教師を経て現在の開成中・高の初代校長に就任。日露戦争時には日銀副総裁としてイギリスでの戦費調達。貴族院議員や日銀総裁、保険会社の設立、大蔵大臣などを経て内閣総理大臣に就任。首相退任後も大蔵大臣に抜擢されるなど影響力を維持し続けました。昭和11年のいわゆる二・二六事件では、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を銃撃された後、太刀を浴びせられ暗殺されました。
小金井公園に建っている高橋是清邸は赤坂にあった当時の建物が移築されたものです。
この「江戸東京たてもの園」にある旧家はいずれも風格のある立派なお屋敷です。
“立派な家を建てる“というのが”成功の証である“という意識が今よりも強かったのかもしれませんね。
建築を学んでいる方は一度足を運んでみると良いと思います。

【高橋是清邸前で】
高橋是清邸

落合住宅機器の歴史を辿る【平成10年度(1998年度)】

投稿者:落合智貴
前年の平成9年度まで当社はバブル以来6年連続の減収であり、この頃には多くの同業他社も倒産や廃業に追い込まれていきました。
当社も廃業した方がよいのではないか?と創業者の落合義作会長と真剣に議論しました。
バブル期の高コスト体質を是正しなければ潰れてしまう状況にあったのです。
社員の給料を減給し、賞与も出せず、先行きの希望が見出せなかったためか、9月末に社員が3人同時に退職する事態も発生しました。
この事件をきっかけになんとか採算にのせることができ、義作会長からは事業継続の了承を得られました。

そんな矢先の10月19日の朝、落合義作会長が自室で倒れているのを家族が発見しました。発見された時には既に脳出血で息を引き取った後でした。前夜にはテレビでゆったりとプロ野球の日本シリーズを元気で見ていました。85歳の生涯でした。
私の母方の祖父である落合義作会長は埼玉の農家の次男で医者になることを期待されていたそうです。
慶応大学経済学部を卒業。慶応ボーイであることを誇りに思っていました。
兵隊として32歳で終戦を迎え、39歳で会社を創立しました。
慶応大学時代の友人が大企業で活躍するのを見て、とても悔しい思いをしていたそうです。
それをバネに、会社を作り皆を見返してやろう。そんな気持ちで創業しました。

私が社長、祖父が会長という期間はわずか3年ちょっとの期間でしたが、短い期間で創業者の考え方を学びとりました。義作会長がよく言っていたのは「分相応(ぶんそうおう)」という言葉でした。自分の『分(ぶん)』をわきまえずに商売を拡大してはいけないという意味です。逆に言うと自分の『分(ぶん)』を大きくするように努力せよという意味だと自分では解釈しています。
経理畑でお金には固い人でした。性格は”瞬間湯沸器”でしたので周りの人は大変だったかもしれません。しかし創業者とは大変なものだと思います。その事業が70年を超えて存続していることを天国で喜んでくれているでしょうか?

【娘婿に先立たれ、孫である私と共に仕事をしたのはわずか3年余りでした】
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(前列右が落合義作会長 その左が筆者)