落合住宅機器の歴史を辿る【昭和38~41年度(1963~1966年度)】

投稿者:落合智貴
昭和39年の東京オリンピックを契機に日本の戦後復興は着実に進んでいました。
新幹線や高速道路、様々なインフラが東京オリンピックを目標に建設されました。
池田勇人首相は経済に重きを置き「所得倍増計画」を掲げて高度経済成長の基礎を築きました。
池田首相は体調不良を抱えながら東京オリンピックを迎え、閉会式の翌日に退陣を表明し、翌年昭和40年に亡くなったそうです。

東陶特約店会
【昭和40年東陶特約店会 前列右から3人目が落合義作社長】

当社も設立以来10年以上が経過し、会社の体裁を整えつつあった時期だと思います。
創立当初50万円だった資本金は昭和40年には400万円まで増やしています。
この頃は増資によって財務体質を厚くしていくのが目標だったようです。

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昭和37年に松下電器産業の代理店になり、昭和42年5月には「落合ナショナル管工事店会」を発足させました。
松下電器産業と当社・管工事会社が三位一体で取り組もうとの決意の表れです。
鉛管の販売が主業でしたので、当時の社名は落合鉛工株式会社ですが、この頃から、東陶やナショナルなどの衛生機器・住設機器に本格的に取り組みはじめました。

第55回 管工機材設備総合展

投稿者:落合智貴
令和5年7月25~27日に東京ビックサイト南ホールにて「第55回管工機材設備総合展」が開催されました。今回はAKB48の4名を迎えての開場式やトークショーも開催されました。
管工機材展開場式
【柏木由紀さん含めAKB48の4名のメンバーが開場式テープカットに参加】

水栓メーカーのSANEIさんではデザインを重視した水栓を展示していました。
SANEIは17ものデザインシリーズを持っており、それぞれのコンセプトで特徴を表現しています。
展示していたのは『ROFFINE』シリーズのシャワーです。
『ROFFINE』のコンセプトは“五感を満たす心地よさ。“
ヨーロッパ調のシンプルで洗練されたデザインで、時間がゆっくりと流れるような、落ち着いた空間を演出するとのことです。
高級ホテルなどで、蛇口を開けた瞬間にシャワーから冷たい水が出るとクレームになってしまう。そうならないようにヒーターを使って即お湯が出るようにしているそうです。

SANEI

新冷戦の勝者になるのは?

投稿者:落合智貴
第二次世界大戦後の世界は米ソ冷戦状態が永く続いていました。日本はその間急速な経済成長により戦後復興を果たし、世界第二位のGDPまで上り詰めました。その後ベルリンの壁崩壊やソ連崩壊によってポスト冷戦時代へと続きました。ポスト冷戦時代の日本はバブルが崩壊し、30年の長きにわたって低成長を続けているうちにGDPで中国に抜かれ、一人当たりGDPも2022年現在で世界30位に甘んじています。
「新冷戦の勝者になるのは日本(中島精也著)」では新冷戦において日本が大復活を遂げる条件が整っていると述べています。
新冷戦の勝者になるのは日本
新冷戦とは2017年の習近平国家主席の中国共産党大会のスピーチを皮切りに、世界覇権を狙う中国とそれを阻止すべく反撃をする米国の対立を軸として、権威主義と民主主義が戦う構図であり、ロシアのウクライナ侵攻はそれを象徴するものです。

第8章では「新冷戦は日本大復活の時代」と題し、日本復活の理由を説明しています。
ポスト冷戦時代では、冷戦終結とバブル崩壊が重なり、円高によって国内製造業がどんどん海外にシフトしていき、国内経済が空洞化していきました。その後金融緩和によって多少の円安に戻りましたが、日本の供給力がすでに落ちてしまっていたため、円安→輸出増加→生産増加→労働需給の逼迫→賃金上昇→インフレ→消費拡大→設備投資拡大→成長率の上昇 といった好循環のメカニズムが働かなかったというのです。
しかし昨今の大幅な円安によって製造業の国内回帰が徐々に進んでいます。安倍首相の“地球儀を俯瞰する外交”の成果として、台湾TSMCの半導体工場を熊本に誘致したことは国内設備投資の呼び水になると予想されています。アベノミクスによって株価や不動産価格がバブル期並みまで回復し、日本を苦しめてきたバランスシート悪化・円高・産業空洞化は過去のものとなった。日本が国際競争力をもつ、ips細胞・半導体製造技術・医療機器・工作機械などのポテンシャルは高い。ポスト冷戦期に日本に不利だった条件が新冷戦期においてオセロゲームのように日本有利になっていくだろうとのことです。
日本の復活に期待したいと思います。

落合住宅機器の歴史を辿る【昭和42~45年度(1967~1970年度)】

投稿者:落合智貴
アメリカのニクソン大統領と日本の佐藤栄作首相の合意により沖縄の日本への返還が決まったのがこの頃です。
終戦から20年以上が経ち“戦後が終わった“と感じた人が多かったのかもしれません。
日本の経済は順調に成長していました。

当社は昭和45年3月に社名を「落合鉛工㈱」から「落合住宅機器㈱」に変更しました。
当社にとっての創業事業である水道鉛管が使われなくなってきており、“鉛の時代が終わった“ということで社名を変えました。
昭和37年に松下電器産業の代理店になって以来、ナショナル製品の拡販に力を入れ、“これからは「住宅機器」の時代である”というのが当時の落合義作社長の判断だったのだと思います。素敵な住宅機器で暮らしがどんどん便利になっていく。日本人みんながそんな夢を描いていた時代だと思います。

【当時の木造の社屋前 女性社員5人】
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【昭和44年10月の伊東温泉社員旅行】
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【昭和45年2月 創立記念食事会にて】
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【落合ビル建替時の世田谷弦巻の仮事務所】
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