落合住宅機器の歴史を辿る【平成12年度(2000年度)】

投稿者:落合智貴
「失われた10年」と言われるようになったのが2000年頃からだと思います。
ユニクロの低価格衣料品や100円ショップのダイソー、マクドナルドの100円バーガーなど、多くの企業は低価格を意識した戦略を採り「デフレ時代」に突入しました。

1999年から2000年に移行する際にコンピューターが誤作動を起こすと言われたいわゆる「2000年問題」がありました。これを機に当社ではオフコンによる請求書発行(手書きと印刷の混合でした)からパソコンによる販売管理ソフトへの移行を決めました。(大塚商会のスマイル導入の経緯はコチラ
当時の当社は錆びた鉄管継手や返品できない機器商品がゴロゴロしており、欲しいモノは仕入先に発注して翌日の入荷を待つのが当たり前の会社でした。”これではいかん”という危機意識を強く持っていました。

オフコンからパソコンへの移行には「在庫管理をパソコンで行う」という当時としては大きな業務の変更を伴いました。商品マスターを作成し、全ての在庫アイテムの適正在庫数を決め、売上と在庫と仕入を全てパソコンで管理する。今となっては当たり前のシステムも最初は多くの試行錯誤がありました。当時は発注方法の変更や、倉庫の整理整頓とレイアウトの変更ばかりやっていた思い出があります。

販売管理ソフトの導入での大きなメリットは「在庫の削減」と「品揃えの強化」の”両立”です。私が最も大事に思っている、“お客様の欲しいものがすぐに揃えられる”という体制はこの販売管理ソフトの導入無しには達成し得ないものだと思います。

当社の決算書をひも解くと、期末在庫が最大だったのが昭和55年の9174万円。
私が社長になった平成7年でも7386万円ありました。
販売管理ソフト導入前の直近の平成11年で6546万円
そして本社が初台であった最後の決算、平成31年3月には3465万円まで削減することができました。
平成11年から平成31年までの20年の間に在庫金額を約半分に減らしたことになります。
それでも在庫アイテム数は1.5倍以上に増えています。
品揃えで評価を頂くことがだいぶ増えました。
在庫の削減と品揃えの強化をある程度両立出来たのではないかと思っています。
これからもお客様のニーズにあった品揃えを追及し続けたいと思います。

【松下電器産業代理店会にて 後列中央は松下電器の中村社長(当時)】
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新型コロナ第7波

投稿者:落合智貴
新型コロナの第7波のピークを迎えている現在、毎日全国で20万人以上の新規感染者が報告されています。かくいう私も先日家族が陽性になってしまいました。
濃厚接触者は追わないというのが最近のルールになりましたが、同居している家族は5日間の自宅待機が求められます。
仮に20万人が一か月続けば600万人。日本の5人に一人が感染するペースです。
家族が感染した、保育園が休園になったなど、本人が感染していなくても会社に行けない状況になる人はますます増えてきそうです。
仕事も家でできる体制や、誰かが急に休んでも替われる体制など各企業は対策を求められます。
コロナ禍3年目になりますが、秋になると落ち着いてくる傾向があります。
状況が良くなるまでもう少しの辛抱かもしれませんね。
第7波

イトーヨーカドー創業者 伊藤雅俊氏の人生

投稿者:落合智貴
セブン&アイ・ホールディングスの名誉会長で創業者の伊藤雅俊氏の人生をつづった「伊藤雅俊 遺す言葉(セブン・&アイ出版)」を読みました。
大正13年生まれの伊藤氏は三菱鉱業の勤務を経て、戦争中に徴兵され、特攻の訓練を受けている途中に運良く終戦を迎えます。戦後、東京・千住で母と異父兄が切り盛りしていた洋品店「羊華堂」を手伝います。伊藤氏は自らを複雑な家庭環境で育ったと述べており、母の3度目の結婚で生まれた伊藤氏には父の異なる兄弟がいました。その中でも、自分の事は顧みず他人に尽くした母親への思いと、父親代わりとなって自分を学校に行かせてくれ、商売の基本を教えてくれた異父兄の譲氏に対する思いは一際強いものがあります。兄の譲が44歳で急死したことをきっかけに株式会社ヨーカ堂を昭和33年に設立し、初代社長に就任します。

伊藤雅俊
伊藤氏の言葉からは端々に“人への感謝”がつづられています。戦後の混乱期の中では人の力を借りなければならないことも多く、複雑な家庭環境の中で争いにならないように道筋をつけてくれた同業者の恩人もいたそうです。“感謝”と“謙虚”が伊藤氏の考え方のベースになっているように感じます。

私が大学生だった平成初期のころ、財務会計の授業で事例として取り上げられたのが、「フロー経営のイトーヨーカ堂」と「ストック経営のダイエー」でした。借金を抑えて利益を重視するヨーカ堂と、借入によるレバレッジを効かせて不動産を増やしていくダイエーは、成功した同じ小売業にもかかわらず考え方が正反対である事例でした。その後ダイエーはバブル崩壊の波にあらがえず衰退していくわけですが、フロー経営のヨーカ堂の考え方には貧しいころの伊藤氏の借金嫌いから来ていたことをこの本を読んで初めて知りました。

巻末の元日経新聞の末村篤氏の解説は秀逸でした。伊藤氏は総会屋問題で退任しなければならなかったことについては多くを語らず、心を痛めているようです。セブンイレブンを大きくしていった鈴木敏文氏との関係も多くは語らず経営を任せていったとの記述があります。情の伊藤氏が理の鈴木氏を静かに見守ったからこそセブンイレブンやセブン銀行などの新規業態がうまくいったのだと思います。鈴木氏も”個性的なダイエー中内さんや西武の堤清二さんだったら自分は三日と持たなかっただろう”と語っているそうです。
伊藤雅俊氏の人生は、俺が俺がの経営ではなく、理念を重んじ、若い世代を陰から見守る、いかにも日本的な“和の精神”を体現したものだったように思います。

落合住宅機器の歴史を辿る【平成13年度(2001年度)】

投稿者:落合智貴
21世紀に突入したことを感慨深く感じていた記憶がありますが、だいぶ時間が経ちました。
2001年の9月11日には米同時多発テロが起こり世界を驚愕させました。
煙を出している世界貿易センタービルに2機目の飛行機が突入するシーンは最初は理解できないほどの衝撃でした。21世紀はどうなってしまうんだろう?と感じた人も多かったのではないでしょうか。

建設業界においてもゼネコンの青木建設・日産建設・殖産住宅が倒産。設備業界でも大手サブコンのエルゴテックが民事再生を申請するなど不安を煽るニュースが続々と入ってきました。「上場企業が倒産する」ということは従来では考えられない事でしたが、それも当り前のように起こるようになったのはこの頃からでしょうか。

2002年の2月には落合住宅機器の創立50周年を迎えることができました。
1995年に2代目社長の父が亡くなり一時は存続も危ぶまれた事を思うと、50周年を超えられたというのは大きな感慨でした。

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50周年を記念して九州松下電器城島ポンプ工場と東陶機器(現TOTO)の小倉工場の見学を兼ねた旅行会にお客様をご招待しました。
柳川川下りや福岡天神のふぐ料理による懇親会、門司港の観光などを行いました。
お客様を旅行にご引率するのは初めてでしたので大変緊張しましたが、思い出に残る旅行会になりました。