落合住宅機器の歴史を辿る【平成28年度(2016年度)】

投稿者:落合智貴
イギリスの国民投票でのEU離脱、アメリカ大統領選でのトランプ氏の選出など、世界全体で保守主義的な傾向が強まってきたのがこの年でした。アメリカのシリアへの空爆や、北朝鮮の核・ミサイル開発など不穏な動きが多かったのもこの年です。
比較的平和であった日本やアジアにおいても戦争の心配をしなければいけないのか?
そんなことを考えたことを思い出します。

景気回復に実感が伴わないと言われ続けていましたが、当社の売上高はバブル崩壊以降最高を上げることができました。
東京オリンピック・パラリンピックの影響が少しずつ出てきているということだと思います。

この年には当社として初めてのオリジナルカタログ(会社案内兼取扱商品一覧)を作成しました。
当社の在庫品を明示し、定価表としても使えるものになります。
新規のお得意様にお渡しする会社案内も兼ねており、当社の豊富な在庫を実感していただくためにも活用したいと考えました。

65周年

平成29年2月17日にはwest53rd日本閣において「落合住宅機器 創立65周年記念式典」を行い、社員・OB・仕入先様等の総勢40名にお集まりいただきました。
会社を永く続けていくことは本当に難しいことです。
65年の歴史のなかで困難に直面することも何度もあったと思います。
歴代の社員や経営者がこれらを乗り越えてきたからこそ65年間会社を存続させることができたのだと思います。
会社を存続させることは当たり前ではないと強く感じた式典でした。

落合住宅機器の歴史を辿る【平成29年度(2017年度)】

投稿者:落合智貴
二度目の東京五輪を三年後に控え、建設需要が徐々に高まってきました。インバウンド増加の影響によりホテルの建設需要も多く、都心の地価が上昇のピークを迎えたのがこの頃だったと思います。建設業界の人手不足は深刻で、工期の遅れも目立ってきました。
宅配業界ではネット通販の増加と人手不足の影響で運賃の値上げを実施し、コンビニや飲食店では外国人店員の姿が多くみられるようになりました。IOTやAI技術の実用化も進んできました。

TOTOミュージアム

5月の会社設立65周年記念のお得意様旅行会では山口県の萩市で一泊し、下関・萩・小倉などを観光しました。
TOTO100周年を記念して小倉の本社敷地内に造られた「TOTOミュージアム」の見学も行いました。
トイレの歴史、TOTO100年の歴史などが展示されておりました。

㈱嶋鉄商店

平成29年の3月に幡ヶ谷の管材店である㈱嶋鉄商店が廃業したため、社員二名とお客様を引き継ぎ営業統合しました。
㈱嶋鉄商店との営業統合は当社にとって大きな増益要因となりました。
社員にとっては、異文化の社員と一緒に働くことによって気づかされることも多かったのではないかと思います。
㈱嶋鉄商店はお客様来店型の管材店でした。
地元のお客様にとっては仕入先を失うというピンチでしたが、当社が受け皿になることでお客様にも喜んでいただけたのではないかと思っています。

落合住宅機器の歴史を辿る【平成30年度(2018年度)】

投稿者:落合智貴
東京オリンピック・パラリンピック2020を2年後に控え、新国立競技場の建替えなど五輪関連施設やインバウンド関連も需要が多く、建設業界は好調でした。
しかしシェアハウス「かぼちゃの馬車」へのスルガ銀行の不正融資や、レオパレスの違法建築問題などもあり、個人資産家の不動産投資が頭打ちになる傾向もみられてきました。
当社はこの年、不動産収益を除いた本業の実績として、売上6.6億円・粗利益1.2億円・経常利益23百万円といずれもバブル崩壊後最高を達成しました。

そんな中、老朽化した本社(初台落合ビル)の建替え・移転問題も佳境を迎えました。
本社の土地・建物の売却交渉、移転候補先の不動産検討、移転に向けた社内への説明と説得。
これら全てがタフなやり取りとなり、非常にしんどい一年でした。
初台周辺は道路が狭くて管材店に適した土地が少なく、広い道路に面した土地は価格も高くなりがちで、最適な土地を得ることは難しかったです。
そして結論は、中野区江古田の築49年の古い賃貸倉庫のリノベーションです。
社員の通勤時間の負担、管材店が少なくなった初台を離れることへのお客様への影響など、中野区江古田への移転は難しい決断でした。
この決断が正しかったのかどうか。
今後の歴史に判断をゆだねることになります。

【この年、以前社員としてお世話になったユアサ商事の「関東ユアサやまずみ会流体システム部会」の会長に就任しました】
やまずみ会
【東京管工機材商業協同組合の「管工機材の教科書」作成委員長として関わったのもこの年です】
教科書委員会

落合住宅機器の歴史を辿る【令和元年度(2019年度)】

投稿者:落合智貴
昭和48年(1973年)に建設された初台落合ビルは築46年となり、建替えのために売却することになりました。平成から令和に替わる節目となるこの年、昭和25年(1950年)の創業以来69年間本社とした初台の地を初めて離れることになりました。

【解体直前の初台落合ビル】
【解体直前の初台落合ビル】

新本社となった中野区江古田の社屋は土地220坪、床面積196坪の2階建て賃貸倉庫です。
築49年の古い建物ですが、耐震補強を含めて内外装をフルリフォームしました。
社内で「江古田移転プロジェクトチーム」を発足し、営業・物流・情報部門から構成されるメンバーで社員・お客様・商品の動線を議論しながら、新社屋のレイアウトを決めていきました。引っ越しに関わる在庫の移動、事務機や什器の手配、IT環境の整備などを含め5か月程度で取りまとめました。
K1274761

初台で構造的に抱えていた問題を新社屋ではおおむね解消することができたと思います。
・広い道路と駐車スペース(スクールゾーンの解消)
・広くて明るい倉庫、冷暖房完備
・屋根付きの搬出入口で雨に濡れない
・2階への搬出入の為、荷物専用のエレベーターを設置
・横置きパイプ棚を屋内に設置(パイプのサビや汚れを防げる)
・棚番管理を開始
・従来よりも広い商談スペース、男女別のキレイなトイレ
・防犯対策として監視カメラを設置
・都心にほど近い立地(環七の内側)
K1274542
会社の移転は社員とお取引先様を巻き込む大きな決断でした。
永い当社の歴史の中でも大きな転換点となります。
江古田移転を会社の発展につなげたいと決意を新たにした大仕事でした。

【令和元年7月1日移転初日に全社員で】
【令和元年7月1日移転初日に全社員で】

落合住宅機器の歴史を辿る【令和2年度(2020年度)】

投稿者:落合智貴
新型コロナウイルスの感染拡大により世界中が混乱する一年となりました。本来ならば東京オリンピック・パラリンピックが開催され、多くの外国人が日本を訪れ歴史的な賑わいを見せるはずでした。五輪は1年延期が決まり、コロナへの対応が続きます。4月には安倍首相により初めての緊急事態宣言が発出され社会活動が大きく制限されました。当初はウイルスの実態がよく分からず、できるだけ自宅から外に出ず人と接触しないことが最も効果が高いとされていました。4月12日に当社の近くの病院で起きた約90人の集団感染が大きく報道され、病院前のバス停を利用していた社員が数人いたことから、当社は二週間の会社休業を決断しました。その後感染は一時落ち着いたもののも新規感染者数は第二波、第三波と続き、年明け1月から3月まで二度目の緊急事態宣言が出されました。
安部首相は9月に自身の病気を理由に退陣し、菅義偉内閣が発足。デジタル庁やこども庁の創設など新たな方針を掲げました。コロナ患者による病院の逼迫と休業を余儀なくされた飲食店からの悲鳴の間に挟まり、菅内閣は常に難しい運営を迫られる状況が続きました。
景気は飲食・旅行・イベント業界を中心に大きな打撃を受ける一方、各種助成金・給付金・無利息融資などが実施され、企業倒産数はむしろ減少しました。
テレワークが推奨され、Zoomなどを使った商談やWeb会議が進むなど、働き方が一気に変わった一年となりました。
コロナウイルス
当社は中野区江古田に移転して2年目となりましたが、売上高で前年比95%、売上総利益で84%とコロナによる建設需要減の影響を受けました。しかし5月の売り上げが前年比50%未満になったことで、持続化給付金と家賃支援給付金を受給。また感染対策のために社員の出社を抑制し、休業扱いとしたことで雇用調整助成金を受給し、売上の減少をカバーしました。
新たな試みとしては、会社近くの国際短期大学とインターンシップの実施を始めました。1年生の学生を8月に3名、3月に2名受け入れ、配管材料に関する座学やTOTOショールームの見学に加え、伝票整理・エクセルデータ作成・在庫発注・棚卸・配送同行など5日間の職場体験をしていただきました。学生及び当社のスタッフにとっても良い経験になるのではないかと思い、今後も続けていきたいと思います。

【国際短期大学は当社から徒歩2分】
【国際短期大学は当社から徒歩2分】

落合住宅機器の歴史を辿る【平成7年度(1995年度)前篇】

投稿者:落合智貴
平成7年1月には阪神淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件。
バブルが崩壊し、リストラという言葉も聞かれてくるようになった頃です。
当時の社長であり私の父である落合隆博はこの年度の前から入退院を繰り返していた為、ユアサ商事の入社からわずか1年で私は退職し、5月から落合住宅機器に入社することになっていました。
しかし、4月の下旬には父は入院し、社長不在の状態になってしまいました。
私はユアサ商事の仕事を午前中に切り上げ、病院で父から印鑑を預かり、会社で必要な事務を執り行いました。
5月に入り私が正式に入社してからも父の病状は悪化を辿り、指示を受けることもできなくなりました。
3月決算であるため税務書類を提出しなければならず、税理士とも連携を取りながら何とか5月末の申告期限には決算書を完成させました。バブル崩壊以降初の赤字。経常損失は約1600万円の苦しい決算です。

そして6月4日の日曜日、2代目社長である父は大腸がんのため入院先の病院で亡くなりました。
55歳の若さでした。

葬儀の後、創業者であり当時会長であった祖父 落合義作と私は今後の体制について話し合いました。
82歳の創業者が社長に再登板するのか、24歳の経験のない私が社長をするのか。
祖父は親族や親しい業界関係者の方々に相談し、悩んでおりました。
私がいきなり社長では大変だろうということで一時は私が専務でスタートしようかと決まりかかった時もありました。しかし最終的には私が社長で行くことになりました。
大学を出て一年余り。入社一カ月余りで私は落合住宅機器の三代目代表取締役社長に就任することになりました。
会社の存続を賭けた戦いがここから始まります。

【中央が落合義作会長(当時)、その左が筆者、父 隆博の遺影を抱えているのは母 由里香】
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落合住宅機器の歴史を辿る【平成7年度(1995年度)後篇】

投稿者:落合智貴
平成7年6月4日に父 落合隆博が死去し、右も左もわからぬまま24歳の私は三代目社長に就任しました。私が入社した時には父はすでに入院していましたので、父と一緒に会社に行くことは一日もありませんでした。もちろん引き継ぎなんてできてません。
世間は「お手並み拝見」と思っていたことでしょう。「あの会社ヤバいんじゃないか」と思っていた人も少なくなかったかもしれません。

会社の存続が賭かった状況で、とりあえずやるべきことの優先順位をつけました。
社長就任の挨拶に伺うのは、1、金融機関 2、仕入先 3、得意先 の順番でした。
企業の資金繰りは待ったなしですので、銀行をまずは安心させなければいけません。そして与信不安を感じて商品を売ってもらえなくなっては困りますので仕入先への挨拶を行いました。得意先への対応はひとまずスタッフに任せ、ひと段落した後にお得意様を回りました。

何しろ入社して一カ月しか経っていませんのでやること全てが初めてです。
祖父の落合義作会長は現場を退いて永かったので細かいことは分かりません。
資金繰り、給料計算、ボーナスはどうする?
月次決算ってどうやるの? 算定基礎届ってなんだ! 年末調整?わけわからん
売上が下がってる?? お客さんの支払いが遅れてる?? 社員が辞めたがっている??

次々と押し寄せる難問に一つ一つ応えていくのに精いっぱいでした。
しかし、社員やお取引先様の助けを借りながら何とか1年を乗り越えました。
もう安心だと思えたのはこの何年後だったでしょうか?

【当時の初台の社屋 ナショナルとヒシパイプのブランドはもうなくなってしまいました】
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落合住宅機器の歴史を辿る【平成8年度(1996年度)】

投稿者:落合智貴
前年の平成7年に二代目社長である父 落合隆博が亡くなり、2年目の年度となりました。
この頃は祖父である落合義作会長も会社に来ることはほとんどなくなり、おおむね私一人で会社を取り仕切るようになりました。時には自宅の隣に住んでいた会長のもとに行き、業界の昔話や今後の対策などを話し合いながら経営を進めていきました。

設備業界としては鉄管が5.5mから4mに変更されたり、樹脂管のサヤ管工法が出てきたり、指定工事店制度の緩和があったりと動きがありました。24時間風呂のレジオネラ菌問題が表面化したのもこの年です。

この頃はバブル時代の高コスト体質を是正するために給与引き下げなどの対策をとり、回収見込みのない不良債権を処理するなど財務体質の再建が急がれていました。
しかし、かねてより懸案であった得意先T社の破たんがいよいよ現実となり、当社史上最高額の8500万円の貸倒れが発生しました。バブル崩壊による売上の減少に加えたダブルパンチです。これらをきっかけに当社の最重要課題は与信管理となりました。当時は今よりも手形の発行が大変多く、常に大きなリスクを抱えていました。だからこれ以上の不良債権を発生させてはならないとの思いで色々と勉強をしました。しかしその後も数年ごとに不良債権は発生しております。この8500万円の貸倒れは私が与信管理を考える大きな教訓となる事件でした。「理由なく支払期限を過ぎたお客様には販売しない」という原則をしっかりと守っていかなければならないと思います。
 
【社長就任二年目の25歳当時の筆者】

 

落合住宅機器の歴史を辿る【平成9年度(1997年度)】

投稿者:落合智貴
平成9年の4月に消費税が3%→5%に上がり、「駆け込み需要」とその反動が大きかったのがこの年でした。
バブル崩壊後の体力低下によって多くのゼネコンの株価が100円を割り、苦境が目につくようになりました。
上場会社である東海興業・多田建設・大都工業が倒産。
また金融界でも三洋証券・山一証券・北海道拓殖銀行が破綻。
日本経済の低迷を象徴するような年だったと思います。

当社においても売上が下がる一方で、不良債権・不良在庫も財務をかなり圧迫しており、希望の見いだせない時期でした。
この頃の私は社長としての仕事と共に1.5tのトラックで現場配送をする仕事をしていました。とはいっても配送件数が少なく、3台の配送のうち2台で済んでしまう為出動しない日も多かった記憶があります。

配送の仕事をしている最中の平成9年9月2日に病気療養中だった母 落合由里香が自宅で息を引き取ったとの知らせが入りました。51歳の若さでした。
母は昭和21年に落合家の長女として生まれました。当時は会社兼自宅でもありましたので、母は近所の本町小学校にも通っていました。ピアノが得意な三姉妹のお姉さんでした。
父との結婚を機に社長夫人ともなり、バブル当時には業界の海外旅行などにもよく行っていましたので、今でも当時のことを懐かしんで下さる方もいらっしゃいます。
私と弟二人の三人の息子を育て、これから父とゆっくり過ごしたいと思っていたでしょう。
亡くなる2年前、大腸がんであった父 落合隆博の看病の最中に母自身も乳がんであることが分かりました。聖マリアンナ医大病院に父母二人同時に入院している時にも、父の病室にきて世話をするような人でした。父が亡くなった時には自分の手術を延期して父の葬式を出しました。手術後しばらくは落ち着いていたのですが2年後に再発し、再手術をしました。
自宅で過ごしたいとの母の意向もあり、当時大学生だった弟と叔母が自宅で看病してくれて最期を迎えました。
26歳の私と、大学4年で就職活動中だった双子の弟二人はこの時点で両親を亡くすことになりました。

【父の死の2年後にあとを追うように母も亡くなりました】
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落合住宅機器の歴史を辿る【平成10年度(1998年度)】

投稿者:落合智貴
前年の平成9年度まで当社はバブル以来6年連続の減収であり、この頃には多くの同業他社も倒産や廃業に追い込まれていきました。
当社も廃業した方がよいのではないか?と創業者の落合義作会長と真剣に議論しました。
高コスト体質を是正しなければ潰れてしまう状況にあったのです。
社員の給料を減給し、賞与も出せず、先行きの希望が見出せなかったためか、9月末に社員が3人同時に退職する事態も発生しました。
この事件をきっかけになんとか採算にのせることができ、義作会長からは事業継続の了承を得られました。

そんな矢先の10月19日の朝、落合義作会長が自室で倒れているのを家族が発見しました。発見された時には既に脳出血で息を引き取った後でした。前夜にはテレビでゆったりとプロ野球の日本シリーズを元気で見ていました。85歳の生涯でした。
私の母方の祖父である落合義作会長は埼玉の地主の次男で医者になることを期待されていたそうです。
慶応大学経済学部を卒業。慶応ボーイであることを誇りに思っていました。
兵隊として32歳で終戦を迎え、39歳で会社を創立しました。
慶応大学時代の友人が大企業で活躍するのを見て、とても悔しい思いをしていたそうです。
それをバネに会社を作り、皆を見返してやろう。そんな気持ちで創業しました。

私が社長、祖父が会長という期間はわずか3年ちょっとの期間でしたが、短い期間で創業者の考え方を学びとりました。義作会長がよく言っていたのは「分相応(ぶんそうおう)」という言葉でした。自分の『分(ぶん)』をわきまえずに商売を拡大してはいけないという意味です。逆に言うと自分の『分(ぶん)』を大きくするように努力せよという意味だと自分では解釈しています。
経理畑でお金には固い人でした。性格は”瞬間湯沸器”でしたので周りの人は大変だったかもしれません。しかし創業者とは大変なものだと思います。その事業がここまで存続していることを天国で喜んでくれているでしょうか?

【娘婿に先立たれ、孫である私と共に仕事をしたのはわずか3年余りでした】untitled
  (前列右が落合義作会長 その左が筆者)

落合住宅機器の歴史を辿る【平成11年度(1999年度)】

投稿者:落合智貴
平成7年の社長就任から5年目となり、会社全体の業務を大方把握できるようにはなったのですが、バブル崩壊以降の厳しい不況にはあらがえずジリジリと売上を落としていきました。
バブルのピークに売上高12.5億円に達していた当社の売り上げは平成11年度には5.0億円、翌年の平成12年度には4.1億円でやっと底を打ちます。

PHSや携帯電話を所有する人が増えてきたのはこの頃です。また、パソコンを持つ人も増えてきました。
当社でもこの頃はキーボードやマウスを触ったことがない社員が多かったですね。
この頃はパソコンの2000年問題をきっかけにシステムの変更が求められていました。
在庫管理の必要性を感じていた私は販売管理ソフトの導入を決断し、この年にはいろんな販売管理ソフト会社の説明を聞き検討をしました。その結果大塚商会の「スマイルα」を導入するに至りました。

社員の士気が一番下がっていたのがこの頃かもしれません。
売上が下がり、給料も下がる・・・・
会社の将来について不安を感じ、どうなってしまうんだろうと思っていた社員が多かったと思います。
売上の減少が続き、何の対策も取られなければ会社は潰れてしまいます。
この販売管理ソフトの導入は倒産を回避する、最後のギリギリのタイミングだったと今となっては思います。

メーカーに返品できない機器商品(いわゆるデットストック)をリスト化して情報共有すること。
「お得意様懇談会」と称し、展示会のバス動員と懇親会を数年ぶりに再開したこと。
これらもこの年に始めました。
小さな対策をひとつずつ積み重ねていく。
これしか生き残る道はなかったと思います。

【ホテルアミスタ阿佐ヶ谷での第一回お得意様懇談会】
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落合住宅機器の歴史を辿る【平成12年度(2000年度)】

投稿者:落合智貴
「失われた10年」と言われるようになったのが2000年頃からだと思います。
ユニクロの低価格衣料品や100円ショップのダイソー、マクドナルドの100円バーガーなど、多くの企業は低価格を意識した戦略を採り「デフレ時代」に突入しました。

1999年から2000年に移行する際にコンピューターが誤作動を起こすと言われたいわゆる「2000年問題」がありました。これを機に当社ではオフコンによる請求書発行(手書きと印刷の混合でした)からパソコンによる販売管理ソフトへの移行を決めました。(大塚商会のスマイルα導入の経緯はコチラ
当時の当社は錆びた鉄管継手や返品できない機器商品がゴロゴロしており、欲しいモノは仕入先に発注して翌日の入荷を待つのが当たり前の会社でした。”これではいかん”という危機意識を強く持っていました。

オフコンからパソコンへの移行には「在庫管理をパソコンで行う」という当時としては大きな業務の変更を伴いました。商品マスターを作成し、全ての在庫アイテムの適正在庫数を決め、売上と在庫と仕入を全てパソコンで管理する。今となっては当たり前のシステムも最初は多くの試行錯誤がありました。当時は発注方法の変更や、倉庫の整理整頓とレイアウトの変更ばかりやっていた思い出があります。

販売管理ソフトの導入での大きなメリットは「在庫の削減」と「品揃えの強化」の”両立”です。私が最も大事に思っている、“お客様の欲しいものがすぐに揃えられる”という体制はこの販売管理ソフトの導入無しには達成し得ないものだと思います。

当社の決算書をひも解くと、期末在庫が最大だったのが昭和55年の9174万円。
私が社長になった平成7年でも7386万円ありました。
販売管理ソフト導入前の直近の平成11年で6546万円
そして本社が初台であった最後の決算、平成31年3月には3465万円まで削減することができました。
平成11年から平成31年までの20年の間に在庫金額を約半分に減らしたことになります。
それでも在庫アイテム数は1.5倍以上にに増えています。
品揃えで評価を頂くことがだいぶ増えました。
在庫の削減と品揃えの強化をある程度両立出来たのではないかと思っています。
これからもお客様のニーズにあった品揃えを追及し続けたいと思います。

【松下電器産業代理店会にて 後列中央は松下電器の中村社長(当時)】
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落合住宅機器の歴史を辿る【平成13年度(2001年度)】

投稿者:落合智貴
21世紀に突入したことを感慨深く感じていた記憶がありますが、だいぶ時間が経ちました。
2001年の9月11日には米同時多発テロが起こり世界を驚愕させました。
煙を出している世界貿易センタービルに2機目の飛行機が突入するシーンは最初は理解できないほどの衝撃でした。21世紀はどうなってしまうんだろう?と感じた人も多かったのではないでしょうか。

建設業界においてもゼネコンの青木建設・日産建設・殖産住宅が倒産。設備業界でも大手サブコンのエルゴテックが民事再生を申請するなど不安を煽るニュースが続々と入ってきました。「上場企業が倒産する」ということは従来では考えられない事でしたが、それも当り前のように起こるようになったのはこの頃からでしょうか。

2002年の2月には落合住宅機器の創立50周年を迎えることができました。
1995年に2代目社長の父が亡くなり一時は存続も危ぶまれた事を思うと、50周年を超えられたというのは大きな感慨でした。

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50周年を記念して九州松下電器城島ポンプ工場と東陶機器(現TOTO)の小倉工場の見学を兼ねた旅行会にお客様をご招待しました。
柳川川下りや福岡天神のふぐ料理による懇親会、門司港の観光などを行いました。
お客様を旅行にご引率するのは初めてでしたので大変緊張しましたが、思い出に残る旅行会になりました。

落合住宅機器の歴史を辿る【平成14年度(2002年度)】

投稿者:落合智貴
当社は配管材料を扱う管材店としてはめずらしく、自社施工部門があります。
以前から社員一人で担当していましたが、この頃には若手社員も採用し二人で「工事部」として組織化するようになりました。
この年に初めて、都知事認可の一般建設業登録(管工事)を取得し、対外的な体裁を整えました。
今でも工事部門の売上は当社の大きなウエイトを占めています。

当時の私は社長に就任以来8年目を迎えておりました。
平成12年(2000年)に導入したパソコンによる在庫管理も軌道に乗り、売上だけでなく仕入を含めた計上による粗利益の管理がようやく出来るようになったのがこの頃です。
そんなタイミングで私の叔父である中山氏が永年勤めていた会社を定年になり、副社長として当社を手伝ってくれることになりました。当時大変心強く思ったものです。

そこでかねてから感じていたことを行動に移すことになります。
私は工事部門を有している会社の社長であるのに工事の事がよく分かっていないと感じていました。
そこで空調工事の施工が勉強できる「ダイキン空調技術訓練校」の門を叩きます。
ちょうど長男が生まれた直後でした。
空調工事の基礎を学び工事のことを理解しようという目的を果たすためにルームエアコンやパッケージエアコンの据付などを行う訓練を2.5カ月間受けました。
昼間は中山副社長に留守を預け、埼玉県の草加市にあった訓練校まで毎日通いました。
自分の不器用さを感じ、実践で施工することはほとんどありませんでしたが、貴重な体験でありました。
そこで一緒に学んだ仲間の中から当社のお客様になって頂き、今でも付き合いの続いている会社もあります。
ダイキン工業さんとの絆もここで強くなった感があります。

(作業着を着ている訓練生の後列左から二人目が筆者)
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落合住宅機器の歴史を辿る【平成15年度(2003年度)】

投稿者:落合智貴
中国の急成長が目立ってきたのが2003年頃でした。
また、アメリカの住宅市況も好調で世界経済は良好でした。
もっとも今となってはアメリカのサブプライムローンが理由だったと分かります。

当社はパソコンによる在庫管理を始めて3年がたち、ようやく発注のルールが確立してきた所でした。
この頃から在庫発注は新人営業マンの仕事になり、社員育成のツールとして今でも大きな役割を果たしています。
会社の創業期から当社を支えていた社員が引退の時期を迎え、世代交代をしっかりと進めていかなければならなかったのですが、実際は間に合っていなかったというのが正直なところです。
社員の採用と育成というのが当時の最重要課題であったと言えます。

平成15年の4月から9月まで、私は都立品川技術専門校(現 都立城南職業能力開発センター)の配管科の生徒として通学しました。
半年間の訓練では、塩ビ・鉄管・銅管の基本的な切断と接合を実習したり、設備に関する手書き図面の作成、模擬家屋による設備の設計と施工 といった事を経験しました。
配管材料を販売する当社では社員が施工の実践を経験する機会はまずありませんので大変よい機会になりました。
施工をするお客様のご苦労を体感出来たのは大きな収穫でした。

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【都立品川技術専門校の配管実習の作品前にて。昼間は学校、夜に会社と体はきつかったですが、当時はまだ32歳。なんとか若さで乗り切りました。】

落合住宅機器の歴史を辿る【平成16年度(2004年度)】

投稿者:落合智貴
楽天とソフトバンクがプロ野球に参入したのがこの年でした。
ネット通販や携帯電話の会社がプロ野球のオーナーになるというのは、日本の産業界の主役が従来の財閥系や老舗メーカーからIT産業など新興企業に移ってきたのを象徴する出来事です。
中小企業のIT化も少しずつ進んで行きました。
1995年の「ウインドウズ95」の発売によりパソコンが身近になってきたこと。
コンピューターの「2000年問題」と言って、1999年から2000年に移行する際にプログラムが誤作動してしまうといった問題もありました。2000年問題の対応は当社にとっては在庫管理のコンピュータ化のきっかけになりました。
手書きが主流であった20世紀から21世紀になるに従い、ITの有効活用をどうするかというのが中小企業においても重要なテーマに据えられるようになったんですね。
当社では2004年にはスタンドアロンで使っていたパソコンを、ネットワークで共有する体制に移行しました。

当時掲げた当社の目標は以下の通りでした。
1、カタログの整備
主要なカタログをファイリングし、社員やお客さまが必要な時にすぐに取り出せるようにすること。
2、仕入価格表(紙ベース)の整備
従来各自でバラバラに保管していた仕入価格の情報を一元化しました。
すぐに最新の価格が調べられるようにしました。
3、LANを活用した販売価格情報の共有
販売管理ソフトをスタンドアロンからネットワークにすることによって、各社員が自分のパソコンから販売価格やお客様の販売実績を簡単に見られるような体制にしました。
4、WEBを活用した仕入先情報の入手
TOTOのテトラシステムのように図面や価格が各自のパソコンから簡単に見られるようなメーカーさんのサービスが増えてきました。これらを活用することで業務が格段に早くなりました。

IT化の推進は業務の標準化にもつながっていきます。
今では当たり前の道具ですが、導入にあたってはいろんな試行錯誤があったことを思い出します。

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(パソコンのない仕事は今では考えられません)

落合住宅機器の歴史を辿る【平成17年度(2005年度)】

投稿者:落合智貴
ライブドアのホリエモン社長が過激な発言で世間をにぎわしたのがこの頃です。
小泉政権の長期化で政治・経済共に比較的安定していたため、世の中全体が少し強気に出ていたんですね。
戦後最長のいざなぎ景気を超える勢いだと言われ、一時はデフレの脱却を期待する向きもありました。
今となってはリーマンショック前の”束の間の宴”だったと言えるかもしれません。
ホリエモン

この年の当社の目標は次の3つでした。
1、営業体制の分業化
新人が在庫発注を一人で担当する体制がようやく定着し、欠品が少なく安定的な在庫管理が出来るようになったのがこの頃です。営業担当者不在の場合にも業務担当者がきちんとフォローする体制を意識してきたのもこの頃からでした。各営業マンが、個人商店ではなく、組織的な動きができるようにしたい。そんなことを目指して努力していきました。

2、在庫配置の最適化・入荷品全品把握
倉庫の棚のラベル表示をきめ細かくするように推進しました。昔の当社は商品がどこにあるかはベテランでないと分からないといった状態でしたが、初めての社員やお客様でもすぐに分かるような表示を進めていきました。
入荷検品の体制なども整え、お引取予定の商品がどこのお客様宛の商品かを明示するなど工夫をしました。
仕入れたのに売上が計上されていない商品はないか?などを追及するためのチェック体制を整えました。

3、全部門黒字化の達成
当社は営業部・工事部・物流管理部の3部門が収益を生み出していますが、全ての部門の損益計算書をつくり問題点を明確にしていきました。特に当時は物流部門が赤字体質であり、配送件数の増加を目標に意識改革を進めていきました。今では物流管理部も黒字が普通になってきましたが、この頃の努力が実ってきたのかなと思います。

今振り返ってみますと、当時の売上高上位10社のうち、なんと5社のお客様がその後倒産しています。「金儲け」はしたいですが、良い時ほど気を引き締めなければいけないというのが教訓ですね。

落合住宅機器の歴史を辿る【平成18年度(2006年度)】

投稿者:落合智貴
長期政権であった小泉純一郎首相から安倍首相(第一次)に交代したのがこの年です。小泉政権時代には景気は上り調子であり、企業業績は比較的堅調でした。ここから首相が毎年変わるという事態が始まります。

建設業界ではいわいる「構造計算書偽造問題」が発覚し、A一級建築士やH社社長らが国会証人喚問を受けるなど社会的にも注目されました。この事件により建て直しを余儀なくされたマンションもありました。この事件をきっかけに建築確認申請が厳しくなりました。

この年に当社が取り組んだことを挙げてみます。
●在庫品揃えの強化
未来RM25サイズ 目皿の皿のみ ビニマス200サイズ スリムダクトのホワイト色 塩ビ合フランジ ・・・ 
など在庫アイテムをかなり増やしました。
●工具展示会の初開催
この年に初めて会社の駐車場で開催しました。翌年からは近所の渋谷本町区民会館を借りて実施しています。
この工具展は今でも毎年行われています。
●工事部新入社員を採用 職業訓練校に派遣 
東京都立城南職業能力開発センターの配管科に6か月間通ってもらいました。今では大きな戦力です。
●物流部門のカイゼン提案制度
物流会議の中で、カイゼンした方が良いと思うポイントを各社員に挙げてもらい、順次実施していきました。
棚の配置、倉庫の蛍光灯の増設、棚のラベルをわかりやすくする、重量ラックの設置 etc・・・ 
1年間で55項目のカイゼンが行われました。
●倒産保険の加入
当社は得意先の倒産による貸し倒れが比較的多い会社でした。
これらを保全するために倒産保険の加入を決断しました。

平成19年2月にはおかげさまで当社創立55周年を迎えました。
OBの皆様にも集って頂き、お祝いを行いました。

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(皆さん今よりちょっとずつ若い!! 懐かしいお顔も見えます)

落合住宅機器の歴史を辿る【平成19年度(2007年度)】

投稿者:落合智貴
アメリカのサブプライムローン問題がヤバそうだぞ、と囁かれる様になってきたのがこの年でした。その後リーマンショックを招きます。
この年は耐震偽装問題の影響で建築基準法が改正され、建築確認申請に大変時間が掛かり、着工にも大きな遅れが出るという事態が起きました。
2008年の北京オリンピックを間近に控え、原料素材の上昇が商品単価を大きく押し上げたのもこの年の特徴でした。

当社としては新しい試みが多かった年でもあります。
1、TDYリモデルスタイルフェアと松下電工汐留ショールームの見学をバス動員にて実行
2、初めての「主力メーカー商品説明会」をTOTO新宿スーパースペースで実施。
(この年以来毎年1月に説明会を続けています。)
3、会社ユニフォームとしてジャンパーと作業着を作成
4、ヤクルト球団の年間ボックスシートをやめる(現在は巨人戦に切り替えています)
5、年間売上1000万円以上のお客様に年末ジャンボ宝くじを進呈
6、インターネットバンキングを開始

業績の方はまずまずで、バブル崩壊以来最高の粗利益率を上げることができました。

会社創立55周年記念行事として、ダイキン滋賀工場見学会と京都観光に行きました。
京都御所や金閣寺、嵐山を観光したのも楽しい思い出になりました。


 (55周年記念旅行 京都御所にて記念撮影)

落合住宅機器の歴史を辿る【平成20年度(2008年度)】

投稿者:落合智貴
当社は昭和37年(1962年)に松下電器産業の代理店となりました。当時の管材業界では松下電器の代理店はまだなく、管材業界として初めて代理店となった、数少ない会社の一つでした。松下電器の代理店であることは当時としては対外的な信用が非常に大きく、当社の創業者で私の祖父はこれを大変誇りに感じていました。
昭和40~50年代は代理店としてナショナル製品の拡販に大変力を入れていたのですが、平成に入ってからは力及ばず販売量が減ってきました。その間、松下電器は松下電工との合併や、ナショナルブランドを全廃しパナソニックブランドに統一するなど組織再編が進み、当社も代理店としての地位を平成20年度をもって返上することになりました。

この年当社は「圧倒的な品揃えとフレキシブルな配送体制を確立しスムーズな流通体制をご提供すると共に、メーカーとお客様を主体的に引き合わせ新商品等の情報を積極的にご提供する。」との経営方針を立てました。
松下電器を中心とした住宅機器商品だけでなく、配管材料の販売に軸足を重く置いていくという決意を表したものであり、配送社員の一人当たり配送件数を増やしていくことなどに力を入れました。
品揃えや物流体制の効率化が重要な課題であるということを改めて確認した年になりました。

比較的安定した業績を上げた平成18~20年度でしたが、群馬のゼネコンI社の倒産による連鎖で、当社の得意先も2社倒産しました。この時の貸倒れは4000万円を超え、さらにこれ以降リーマンショックの苦しみが始まります。

untitled(この年東管機組合の理事に就任。第四支部新旧理事で記念撮影)

落合住宅機器の歴史を辿る【平成21年度(2009年度)】

投稿者:落合智貴
前年度9月のリーマンショックを受けて、一年を通して打撃を受けたのがこの年度でした。
経済のいろんな指標が3割減になったという印象です。
住宅着工件数は前年の109万戸から79万戸へと28%減になりました。
この年以来、未だに100万戸への復活は成し遂げられないままです。

当社の業績も売上高前年比23%減。粗利益で31%減と大きく落ち込みました。
こうなると黒字を出すのは至難の技です。この年以来3期連続の本業での赤字が続くことになります。
本業の経常利益は約1800万円の赤字。リーマンショックによる得意先の倒産による貸し倒れの計上を含めると、全社の税引き前利益はなんと4600万円以上の赤字になりました。
当社歴史上最大の赤字だと思います。今振り返ると、バブル崩壊よりももっと苦しい3年間だったと感じます。
鳩山内閣
政治の世界では自民党が下野し、民主党の鳩山政権が誕生しました。
脱ダム宣言など、公共投資の大幅な削減がなされ、建設業界はリーマンショックとのダブルパンチを受けたことになります。
現場が少なくなり、数少ない現場を多くの業者が奪い合いました。価格競争が大変激しくなり、価格を下げても下げても他社がもっと下げてくる。そういったいわゆる「デフレスパイラル」が施工会社でも、流通・メーカーでも進んでいくことになります。
建設現場に従事する職人さんの数もこの年を境に減少し、今の人手不足に繋がっているのではないでしょうか?
かつてのように職人が“稼げる仕事”ではなくなったということだと思います。

落合住宅機器の歴史を辿る【平成22年度(2010年度)】

投稿者:落合智貴
INAXやサンウエーブ、トステムなど5社が合併しLIXILが誕生したのがこの年でした。パナソニック電工がパナソニックと合併すると発表されたのもこの年です。リーマンショックからの復活を目指して各社生き残りに必死になっている様子が分かります。

当社では物流部門や経理部門での人員の交代や営業部門で初めての女性の採用など動きがありました。業績は多少の回復は見られたものの2期連続の赤字となり、依然厳しい状態でした。

この年度の最も大きな事件と言えば平成23年3月11日の東日本大震災です。当社社員の義母家族も残念ながら津波の被害でお亡くなりになりました。
地震直後はスーパーやコンビニの商品が棚から消えましたね。
そしてガソリンがなくなりました。ガソリンスタンドに車が列をなしたことをご記憶の方も多いと思います。
その影響で各社配送がままならず、一時は塩ビ管などの入手が困難になりました。
計画停電があり営業できない問屋さんがあったり、メーカーも操業できないこともありました。東北地方では部品メーカーが多く、トイレ製品・空調機・電気温水器・エコキュートなど完成品メーカーが商品を作れないといったこともしばらく続きました。
メーカーから流通に至るサプライチェーンがいかに大切なものであるかを思い知らされました。

地震の前はオール電化が注目されていましたが、地震以後はガスが見直されました。
東日本大震災によって日本の景色がいろんな意味で変わった、歴史的な事件だったと思います。
地震0215
【当社が所有しているマンションの壁にも地震の影響で多数の亀裂ができました】

落合住宅機器の歴史を辿る【平成23年度(2011年度)】

投稿者:落合智貴
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災の直後に始まったのがこの年度でした。本来ならリーマンショックからそろそろ立ち直るかという期待感があった年でした。しかし福島第一原発の事故の影響による計画停電がありました。東北地方の主に部品メーカーの被災により製品メーカーの生産にも大いに影響が出ました。給湯器や電気温水器、エアコンなどのプリント基板が作れず納期が大幅に遅れたと記憶しております。経済全体にブレーキが掛かりうまく回らなくなったという感じでした。多くの見知らぬ人々が日々コツコツと仕事をしていることがいかに世の中の役に立っているのかを思い知らされましたね。当社としては3期連続の赤字となり大変危機感を強めた一年になりました。

社員の事故や怪我、病気も大変多い年でした。工事部社員の高所落下による骨折事故。その他盲腸手術による入院、バイク事故による骨折、軽い脳こうそくによる入院など複数の社員が大きなアクシデントに見舞われました。今では皆元気に働いていますが健康が何より大事であるとの実感を得ました。

悪いことばかりの様ですが、良いこともありました。2012年2月19日には会社創立60周年を迎えることができました。企業は一代30年が目安とすると、いよいよ三回目の30年がスタートすることになります。私は早すぎた三代目でしたが、これからが本来の三代目の時期になるなと気を引き締めた事を思い出します。


(創立60周年パーティーにはOBや仕入先の方々も駆けつけてくれました)

落合住宅機器の歴史を辿る【平成24年度(2012年度)】

投稿者:落合智貴
リーマンショックからの不況が長期化し、メーカーの再編が多く行われたのがこの年度でした。新日鉄と住友金属の合併、三菱樹脂の塩ビ管事業の積水化学工業への事業譲渡、リケンとCK金属の合弁会社設立などがありました。供給過剰の時代が長く続き、価格競争の激化と共にメーカーさんの収益力が大幅に落ち込んできたことの表れだと思います。バブル崩壊以降のデフレがこういう結果に結びついているのですね。

当社としては年度初めに営業担当の大幅交代を行い臨みました。担当替えの目的は色々なタイプのお得意様を経験することで社員の成長を促す事でした。売上の大きなお得意様の担当をほとんど交換するものであり、反対意見も不安もリスクもありました。しかし実行の結果、3期連続の赤字からようやく脱却し、売上前年比125%を達成し黒字化を果たしました。慣れない担当先との取り組みを頑張ってくれた社員の皆さまのおかげだと思います。これを受けて、5年ごとに担当交代をする方針を打ち出しました。今後もレベルの高い営業マンを多く育て、会社の力をより強くし続けていきたいと思います。


会社設立60周年を記念して行われたテラル(広島県福山市)・ノーリツ(兵庫県明石市)への工場見学兼旅行会が行われたのもこの年です。多数のお客様にご参加頂きました。修復中の「姫路城」や、阪神大震災の教訓を展示した「人と防災未来センター」も見学してきました。

                         
同じく60周年記念社員旅行は3泊4日で沖縄に行ってきました。帰りの飛行機が東京の大雪のため大幅に遅れて冷や冷やしましたが、無事に帰ってこられました。楽しい思い出になったと思います。

落合住宅機器の歴史を辿る【平成25年度(2013年度)】

投稿者:落合智貴
第二次安倍内閣がアベノミクスを打ち出し、長いデフレからインフレへの転換点に位置づけられるのがこの年でした。黒田日銀の大胆な金融緩和があり、9月には東京五輪の開催が決定され、リーマンショックからの回復がようやく実感できるようになりました。消費税の5→8%への駆け込み需要があったのもこの年度でした。
当社の業績も2期連続で増収増益となりました。そうなると会社の雰囲気も良くなってきますよね。

当社としては、中小企業のブランド化をどう進めていくかということを模索しました。「スムーズな設備工事現場をお手伝いします」とのコーポレートメッセージを策定しました。日々の社員の行動基準も定め、組織の一体感を高めていくことを目指しました。一朝一夕にはいかないと思いますが、この年にスタートした戦略が知らず知らずに会社の力を強くしていければいいなと思います。

私は中小企業とは弱いものであるという世間の風潮にあまり違和感を持っていませんでした。しかし中小企業のブランド化を勉強していくうちに少し見方が変わったような気がします。中小企業は大企業よりも、組織の統一感が得やすく、トップの方針を浸透させるのもはるかに大企業よりも容易だと思います。また、中小企業はニッチな強みに特化することにリスクが少なく、思い切った戦略がとりやすいのだと感じました。資金力のある大企業の方が大胆な投資ができるかもしれませんが、お金をかけない小さな工夫で素晴らしい会社に“魅せる“あるいは”変わる“方法はアイデア次第でいくらでもできるということも学びました。

“中小企業は決して弱くない!!“ この年に学んだことは大変大きかったと思います。


(写真はLIXIL新宿ショールームの見学会)

落合住宅機器の歴史を辿る【平成26年度(2014年度)】

投稿者:落合智貴
この年の最も大きな話題は、配管材料のネット通販の開始があります。水道設備工事や空調工事では材料が今すぐ欲しいというニーズが大変大きいと思いますが、材料がどこにあるかが分からないといった悩みも多いです。
近年ITの普及や、スマホの普及で特に若い世代の方々はネット検索で何かを調べることが日常になっています。当社の6000アイテムという豊富な在庫の存在をWEBで公開することによって一人でも多くの方に『在庫があって助かった!』と言って頂けたらと思い、設備工事部材専門ネット通販サイト「設備ロジス.com」を立ち上げました。
既に配管材料を扱うサイトは多数存在していますが、お取り寄せに数日掛かる商品の掲載が多いです。“全ての商品が在庫即納品”であるというのが当社の大きな特徴です。また、すぐに欲しいというニーズにお応えするためにネットプロテクション社を利用した“コンビニ後払いシステム”をお勧めしています。その他カード決済や代引き決済なども後から機能を追加しました。また、東京都内近隣の方には“ご来店引取も可能”(お引取の場合は現金決済限定)となっております。新宿の都心に近い立地を生かせていけたら嬉しいです。

平成26年4月にサイトオープンした当初は月に1~2件のご注文しかありませんでしたが、1~2年後には毎日のようにご注文やお問い合わせを頂けるようになりました。設備工事関係の方だけでなく、マンション管理・ビル管理・リフォームの関係の方のご依頼が多いように思います。また日本全国から注文頂けることもうれしいことです。
新しい顧客と毎日のように出会えるこの事業がどこまで広がっていくのか、挑戦を続けていきたいと思います。

落合住宅機器の歴史を辿る【平成27年度(2015年度)】

投稿者:落合智貴
アベノミクスも4年目に入りマイナス金利も実施されましたが、景気の回復を大きく実感できるには至りませんでした。横浜のマンションが傾く、いわゆる「杭打ち問題」が発覚したのもこの年です。
一方インバウンドが年間2000万人近くになり東京五輪に向けた宿泊施設の供給にも限界が見られ、民泊の法制度が検討されたり、ホテルの建設計画が進められるなど、観光立国への転換が進められたのもこの頃です。
かつて日本の高度経済成長は工業製品を輸出することで支えられていました。
しかし工場の海外移転が進む中で、日本経済を支える柱の一つが「観光」になったことを感じました。

当社は組織の在り方を一歩踏み出す年になりました。
社員の中間層が40代になり、20代の若手が成長していく中で、初めて部長・課長のポストを新設しました。
ベテランにやりがいと責任を感じられる組織。
若手にやる気と希望を感じられる組織。
そんな組織に少しでも近づけていきたいとの思いでした。

また社員の投票で会社のイメージカラーを決めました。
約3か月を費やし、投票を重ねて皆で選んだカラーが紫と黄色の組み合わせです。
色が決まったのち当社が古くから使っているロゴマークに色を付けて立体的にしたものを作成し、ホームページやトラックの後ろに使っています。
「スムーズな設備工事現場をお手伝いします」とのコーポレートメッセージと共に、皆で決めたカラーが多くの人の目に留まり、企業イメージのアップにつなげたい。
そんな思いが詰まっています。

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