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落合住宅機器の歴史を辿る【平成7年度(1995年度)後篇】

投稿者:落合智貴 平成7年6月4日に父 落合隆博が死去し、右も左もわからぬまま24歳の私は三代目社長に就任しました。 私が入社した時には父はすでに入院していましたので、父と一緒に会社に行くことは一日もありませんでした。 もちろん引き継ぎなんてできてません。 世間は「お手並み拝見」と思っていたことでしょう。 「あの会社ヤバいんじゃないか」と思っていた人も少なくなかったかもしれません。 会社の存続が賭かった状況で、とりあえずやるべきことの優先順位をつけました。 社長就任の挨拶に伺うのは、1、金融機関 2、仕入先 3、得意先 の順番でした。 企業の資金繰りは待ったなしですので、銀行をまずは安心させなければいけません。 そして与信不安を感じて商品を売ってもらえなくなっては困りますので仕入先への挨拶を行いました。 得意先への対応はひとまずスタッフに任せ、ひと段落した後にお得意様を回りました。 何しろ入社して一カ月しか経っていませんのでやること全てが初めてです。 祖父の落合義作会長は現場を退いて永かったので細かいことは分かりません。 資金繰り、給料計算、ボーナスはどうする? 月次決算ってどうやるの? 算定基礎届ってなんだ! 年末調整?わけわからん 売上が下がってる?? お客さんの支払いが遅れてる?? 社員が辞めたがっている?? 次々と押し寄せる難問に一つ一つ応えていくのに精いっぱいでした。 しかし、社員やお取引先様の助けを借りながら何とか1年を乗り越えました。 もう安心だと思えたのはこの何年後だったでしょうか? 20年以上経った今でも安心できていないかもしれません。 【当時の社屋 ナショナルとヒシパイプのブランドはもうなくなってしまいました】

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成8年度(1996年度)】

投稿者:落合智貴 前年の平成7年に二代目社長である父 落合隆博が亡くなり、2年目の年度となりました。 この頃は祖父である落合義作会長も会社に来ることはほとんどなくなり、おおむね私一人で会社を取り仕切るようになりました。時には自宅の隣に住んでいた会長のもとに行き、業界の昔話や今後の対策などを話し合いながら経営を進めていきました。 設備業界としては鉄管が5.5mから4mに変更されたり、樹脂管のサヤ管工法が出てきたり、指定工事店制度の緩和があったりと動きがありました。24時間風呂のレジオネラ菌問題が表面化したのもこの年です。 この頃はバブル時代の高コスト体質を是正するために給与引き下げなどの対策をとり、回収見込みのない不良債権を処理するなど財務体質の再建が急がれていました。 しかし、かねてより懸案であった得意先T社の破たんがいよいよ現実となり、当社史上最高額の8500万円の貸倒れが発生しました。バブル崩壊による売上の減少に加えたダブルパンチです。これらをきっかけに当社の最重要課題は与信管理となりました。当時は今よりも手形の発行が大変多く、常に大きなリスクを抱えていました。だからこれ以上の不良債権を発生させてはならないとの思いで色々と勉強をしました。しかしその後も数年ごとに不良債権は発生しております。この8500万円の貸倒れは私が与信管理を考える大きな教訓となる事件でした。「理由なく支払期限を過ぎたお客様には販売しない」という原則をしっかりと守っていかなければならないと思います。   【社長就任二年目の25歳当時の筆者】

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成9年度(1997年度)】

投稿者:落合智貴 平成9年の4月に消費税が3%→5%に上がり、「駆け込み需要」とその反動が大きかったのがこの時代でした。 バブル崩壊後の体力低下によって多くのゼネコンの株価が100円を割り、苦境が目につくようになりました。 上場会社である東海興業・多田建設・大都工業が倒産。 また金融界でも三洋証券・山一証券・北海道拓殖銀行が破綻。 日本経済の低迷を象徴するような年だったと思います。 当社においても売上が下がる一方で、不良債権・不良在庫も財務をかなり圧迫しており、希望の見いだせない時期でした。 この頃の私は社長としての仕事と共に1.5tのトラックで現場配送をする仕事をしていました。とはいっても配送件数が少なく、3台の配送のうち2台で済んでしまう為出動しない日も多かった記憶があります。 配送の仕事をしている最中の平成9年9月2日に病気療養中だった母 落合由里香が自宅で息を引き取ったとの知らせが入りました。51歳の若さでした。 母は昭和21年に落合家の長女として生まれました。当時は会社兼自宅でもありましたので、母は近所の本町小学校にも通っていました。ピアノが得意な三姉妹のお姉さんでした。 父との結婚を機に社長夫人ともなり、バブル当時には業界の海外旅行などにもよく行っていましたので、今でも当時のことを懐かしんで下さる方もいらっしゃいます。 私と弟二人の三人の息子を育て、これから父とゆっくり過ごしたいと思っていたでしょう。 亡くなる2年前、大腸がんであった父 落合隆博の看病の最中に母自身も乳がんであることが分かりました。聖マリアンナ医大病院に父母二人同時に入院している時にも、父の病室にきて世話をするような人でした。父が亡くなった時には自分の手術を延期して父の葬式を出しました。手術後しばらくは落ち着いていたのですが2年後に再発し、再手術をしました。 自宅で過ごしたいとの母の意向もあり、当時大学生だった弟と叔母が自宅で看病してくれて最期を迎えました。 26歳の私と、大学4年で就職活動中だった双子の弟二人はこの時点で両親を亡くすことになりました。 【父の死の2年後にあとを追うように母も亡くなりました】

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成10年度(1998年度)】

投稿者:落合智貴 前年の平成9年度まで当社はバブル以来6年連続の減収であり、この頃には多くの同業他社も倒産や廃業に追い込まれていきました。 当社も廃業した方がよいのではないか?と創業者の落合義作会長と真剣に議論しました。 高コスト体質を是正しなければ潰れてしまう状況にあったのです。 社員の給料を減給し、賞与も出せず、先行きの希望が見出せなかったためか、9月末に社員が3人同時に退職する事態も発生しました。 この事件をきっかけになんとか採算にのせることができ、義作会長からは事業継続の了承を得られました。 そんな矢先の10月19日の朝、落合義作会長が自室で倒れているのを家族が発見しました。発見された時には既に脳出血で息を引き取った後でした。前夜にはテレビでゆったりとプロ野球の日本シリーズを元気で見ていました。85歳の生涯でした。 私の母方の祖父である落合義作会長は埼玉の地主の次男で医者になることを期待されていたそうです。 慶応大学経済学部を卒業。慶応ボーイであることを誇りに思っていました。 兵隊として32歳で終戦を迎え、39歳で会社を創立しました。 慶応大学時代の友人が大企業で活躍するのを見て、とても悔しい思いをしていたそうです。 それをバネに会社を作り、皆を見返してやろう。そんな気持ちで創業しました。 私が社長、祖父が会長という期間はわずか3年ちょっとの期間でしたが、短い期間で創業者の考え方を学びとりました。義作会長がよく言っていたのは「分相応(ぶんそうおう)」という言葉でした。自分の『分(ぶん)』をわきまえずに商売を拡大してはいけないという意味です。逆に言うと自分の『分(ぶん)』を大きくするように努力せよという意味だと自分では解釈しています。 経理畑でお金には固い人でした。性格は”瞬間湯沸器”でしたので周りの人は大変だったかもしれません。しかし創業者とは大変なものだと思います。その事業がここまで存続していることを天国で喜んでくれているでしょうか? 【娘婿に先立たれ、孫である私と共に仕事をしたのはわずか3年余りでした】   (前列右が落合義作会長 その左が筆者)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成11年度(1999年度)】

投稿者:落合智貴 平成7年の社長就任から5年目となり、会社全体の業務を大方把握できるようにはなったのですが、バブル崩壊以降の厳しい不況にはあらがえずジリジリと売上を落としていきました。 バブルのピークに売上高12.5億円に達していた当社の売り上げは平成11年度には5.0億円、翌年の平成12年度には4.1億円でやっと底を打ちます。 PHSや携帯電話を所有する人が増えてきたのはこの頃です。また、パソコンを持つ人も増えてきました。 当社でもこの頃はキーボードやマウスを触ったことがない社員が多かったですね。 この頃はパソコンの2000年問題をきっかけにシステムの変更が求められていました。 在庫管理の必要性を感じていた私は販売管理ソフトの導入を決断し、この年にはいろんな販売管理ソフト会社の説明を聞き検討をしました。その結果大塚商会の「スマイルα」を導入するに至りました。 社員の士気が一番下がっていたのがこの頃かもしれません。 売上が下がり、給料も下がる・・・・ 会社の将来について不安を感じ、どうなってしまうんだろうと思っていた社員が多かったと思います。 売上の減少が続き、何の対策も取られなければ会社は潰れてしまいます。 この販売管理ソフトの導入は倒産を回避する、最後のギリギリのタイミングだったと今となっては思います。 メーカーに返品できない機器商品(いわゆるデットストック)をリスト化して情報共有すること。 「お得意様懇談会」と称し、展示会のバス動員と懇親会を数年ぶりに再開したこと。 これらもこの年に始めました。 小さな対策をひとつずつ積み重ねていく。 これしか生き残る道はなかったと思います。 【ホテルアミスタ阿佐ヶ谷での第一回お得意様懇談会】

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成12年度(2000年度)】

投稿者:落合智貴 「失われた10年」と言われるようになったのが2000年頃からだと思います。 ユニクロの低価格衣料品や100円ショップのダイソー、マクドナルドの100円バーガーなど、多くの企業は低価格を意識した戦略を採り「デフレ時代」に突入しました。 1999年から2000年に移行する際にコンピューターが誤作動を起こすと言われたいわゆる「2000年問題」がありました。これを機に当社ではオフコンによる請求書発行(手書きと印刷の混合でした)からパソコンによる販売管理ソフトへの移行を決めました。(大塚商会のスマイルα導入の経緯はコチラ) 当時の当社は錆びた鉄管継手や返品できない機器商品がゴロゴロしており、欲しいモノは仕入先に発注して翌日の入荷を待つのが当たり前の会社でした。”これではいかん”という危機意識を強く持っていました。 オフコンからパソコンへの移行には「在庫管理をパソコンで行う」という当時としては大きな業務の変更を伴いました。商品マスターを作成し、全ての在庫アイテムの適正在庫数を決め、売上と在庫と仕入を全てパソコンで管理する。今となっては当たり前のシステムも最初は多くの試行錯誤がありました。当時は発注方法の変更や、倉庫の整理整頓とレイアウトの変更ばかりやっていた思い出があります。 販売管理ソフトの導入での大きなメリットは「在庫の削減」と「品揃えの強化」の”両立”です。私が最も大事に思っている、“お客様の欲しいものがすぐに揃えられる”という体制はこの販売管理ソフトの導入無しには達成し得ないものだと思います。 当社の決算書をひも解くと、期末在庫が最大だったのが昭和55年の9174万円。 私が社長になった平成7年でも7386万円ありました。 販売管理ソフト導入前の直近の平成11年で6546万円 そして平成26年には4136万円まで削減することができました。 平成11年から平成26年までの間に在庫金額は63%に減らすことができました。 それでも在庫アイテム数は1.5倍ほどに増えています。 品揃えで評価を頂くことがだいぶ増えました。 在庫の削減と品揃えの強化をある程度両立出来たのではないかと思っています。 これからもお客様のニーズにあった品揃えを追及し続けたいと思います。 【松下電器産業代理店会にて 後列中央は松下電器の中村社長(当時)】

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成13年度(2001年度)】

投稿者:落合智貴 21世紀に突入したことを感慨深く感じていた記憶がありますが、だいぶ時間が経ちました。 2001年の9月11日には米同時多発テロが起こり世界を驚愕させました。 煙を出している世界貿易センタービルに2機目の飛行機が突入するシーンは最初は理解できないほどの衝撃でした。21世紀はどうなってしまうんだろう?と感じた人も多かったのではないでしょうか。 建設業界においてもゼネコンの青木建設・日産建設・殖産住宅が倒産。設備業界でも大手サブコンのエルゴテックが民事再生を申請するなど不安を煽るニュースが続々と入ってきました。「上場企業が倒産する」ということは従来では考えられない事でしたが、それも当り前のように起こるようになったのはこの頃からでしょうか。 2002年の2月には落合住宅機器の創立50周年を迎えることができました。 1995年に2代目社長の父が亡くなり一時は存続も危ぶまれた事を思うと、50周年を超えられたというのは大きな感慨でした。 50周年を記念して九州松下電器城島ポンプ工場と東陶機器(現TOTO)の小倉工場の見学を兼ねた旅行会にお客様をご招待しました。 柳川川下りや福岡天神のふぐ料理による懇親会、門司港の観光などを行いました。 お客様を旅行にご引率するのは初めてでしたので大変緊張しましたが、思い出に残る旅行会になりました。

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成14年度(2002年度)】

投稿者:落合智貴 当社は配管材料を扱う管材店としてはめずらしく、自社施工部門があります。 以前から社員一人で担当していましたが、この頃には若手社員も採用し二人で「工事部」として組織化するようになりました。 この年に初めて、都知事認可の一般建設業登録(管工事)を取得し、対外的な体裁を整えました。 今でも工事部門の売上は当社の大きなウエイトを占めています。 当時の私は社長に就任以来8年目を迎えておりました。 平成12年(2000年)に導入したパソコンによる在庫管理も軌道に乗り、売上だけでなく仕入を含めた計上による粗利益の管理がようやく出来るようになったのがこの頃です。 そんなタイミングで私の叔父である中山氏が永年勤めていた会社を定年になり、副社長として当社を手伝ってくれることになりました。当時大変心強く思ったものです。 そこでかねてから感じていたことを行動に移すことになります。 私は工事部門を有している会社の社長であるのに工事の事がよく分かっていないと感じていました。 そこで空調工事の施工が勉強できる「ダイキン空調技術訓練校」の門を叩きます。 ちょうど長男が生まれた直後でした。 空調工事の基礎を学び工事のことを理解しようという目的を果たすためにルームエアコンやパッケージエアコンの据付などを行う訓練を2.5カ月間受けました。 昼間は中山副社長に留守を預け、埼玉県の草加市にあった訓練校まで毎日通いました。 自分の不器用さを感じ、実践で施工することはほとんどありませんでしたが、貴重な体験でありました。 そこで一緒に学んだ仲間の中から当社のお客様になって頂き、今でも付き合いの続いている会社もあります。 ダイキン工業さんとの絆もここで強くなった感があります。 (作業着を着ている訓練生の後列左から二人目が筆者)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成15年度(2003年度)】

投稿者:落合智貴 中国の急成長が目立ってきたのが2003年頃でした。 また、アメリカの住宅市況も好調で世界経済は良好でした。 もっとも今となってはアメリカのサブプライムローンが理由だったと分かります。 当社はパソコンによる在庫管理を始めて3年がたち、ようやく発注のルールが確立してきた所でした。 この頃から在庫発注は新人営業マンの仕事になり、社員育成のツールとして今でも大きな役割を果たしています。 会社の創業期から当社を支えていた社員が引退の時期を迎え、世代交代をしっかりと進めていかなければならなかったのですが、実際は間に合っていなかったというのが正直なところです。 社員の採用と育成というのが当時の最重要課題であったと言えます。 平成15年の4月から9月まで、私は都立品川技術専門校(現 都立城南職業能力開発センター)の配管科の生徒として通学しました。 半年間の訓練では、塩ビ・鉄管・銅管の基本的な切断と接合を実習したり、設備に関する手書き図面の作成、模擬家屋による設備の設計と施工 といった事を経験しました。 配管材料を販売する当社では社員が施工の実践を経験する機会はまずありませんので大変よい機会になりました。 施工をするお客様のご苦労を体感出来たのは大きな収穫でした。 (昼間は学校、夜に会社と体はきつかったですが、 当時はまだ32歳。なんとか若さで乗り切りました。)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成16年度(2004年度)】

投稿者:落合智貴 楽天とソフトバンクがプロ野球に参入したのがこの年でした。 ネット通販や携帯電話の会社がプロ野球のオーナーになるというのは、日本の産業界の主役が従来の財閥系や老舗メーカーからIT産業など新興企業に移ってきたのを象徴する出来事です。 中小企業のIT化も少しずつ進んで行きました。 1995年の「ウインドウズ95」の発売によりパソコンが身近になってきたこと。 コンピューターの「2000年問題」と言って、1999年から2000年に移行する際にプログラムが誤作動してしまうといった問題もありました。2000年問題の対応は当社にとっては在庫管理のコンピュータ化のきっかけになりました。 手書きが主流であった20世紀から21世紀になるに従い、ITの有効活用をどうするかというのが中小企業においても重要なテーマに据えられるようになったんですね。 当社では2004年にはスタンドアロンで使っていたパソコンを、ネットワークで共有する体制に移行しました。 当時掲げた当社の目標は以下の通りでした。 1、カタログの整備 主要なカタログをファイリングし、社員やお客さまが必要な時にすぐに取り出せるようにすること。 2、仕入価格表(紙ベース)の整備 従来各自でバラバラに保管していた仕入価格の情報を一元化しました。 すぐに最新の価格が調べられるようにしました。 3、LANを活用した販売価格情報の共有 販売管理ソフトをスタンドアロンからネットワークにすることによって、各社員が自分のパソコンから販売価格やお客様の販売実績を簡単に見られるような体制にしました。 4、WEBを活用した仕入先情報の入手 TOTOのテトラシステムのように図面や価格が各自のパソコンから簡単に見られるようなメーカーさんのサービスが増えてきました。これらを活用することで業務が格段に早くなりました。 IT化の推進は業務の標準化にもつながっていきます。 今では当たり前の道具ですが、導入にあたってはいろんな試行錯誤があったことを思い出します。   (パソコンのない仕事は今では考えられません)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成17年度(2005年度)】

投稿者:落合智貴 ライブドアのホリエモン社長が過激な発言で世間をにぎわしたのがこの頃です。 小泉政権の長期化で政治・経済共に比較的安定していたため、世の中全体が少し強気に出ていたんですね。 戦後最長のいざなぎ景気を超える勢いだと言われ、一時はデフレの脱却を期待する向きもありました。 今となってはリーマンショック前の”束の間の宴”だったのかもしれません。 この年の当社の目標は次の3つでした。 1、営業体制の分業化 新人が在庫発注を一人で担当する体制がようやく定着し、欠品が少なく安定的な在庫管理が出来るようになったのがこの頃です。営業担当者不在の場合にも業務担当者がきちんとフォローする体制を意識してきたのもこの頃からでした。各営業マンが、個人商店ではなく、組織的な動きができるようにしたい。そんなことを目指して努力していきました。 2、在庫配置の最適化・入荷品全品把握 倉庫の棚のラベル表示をきめ細かくするように推進しました。昔の当社は商品がどこにあるかはベテランでないと分からないといった状態でしたが、初めての社員やお客様でもすぐに分かるような表示を進めていきました。 入荷検品の体制なども整え、お引取予定の商品がどこのお客様宛の商品かを明示するなど工夫をしました。 仕入れたのに売上が計上されていない商品はないか?などを追及するためのチェック体制を整えました。 3、全部門黒字化の達成 当社は営業部・工事部・物流管理部の3部門が収益を生み出していますが、全ての部門の損益計算書をつくり問題点を明確にしていきました。特に当時は物流部門が赤字体質であり、配送件数の増加を目標に意識改革を進めていきました。今では物流管理部も黒字が普通になってきましたが、この頃の努力が実ってきたのかなと思います。 今振り返ってみますと、当時の売上高上位10社のうち、なんと5社のお客様がその後倒産しています。 「金儲け」はしたいですが、良い時ほど気を引き締めなければいけないというのが教訓ですね。

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成18年度(2006年度)】

投稿者:落合智貴 長期政権であった小泉純一郎首相から安倍首相(第一次)に交代したのがこの年です。小泉政権時代には景気は上り調子であり、企業業績は比較的堅調でした。ここから首相が毎年変わるという事態が始まります。 建設業界ではいわいる「構造計算書偽造問題」が発覚し、A一級建築士やH社社長らが国会証人喚問を受けるなど社会的にも注目されました。この事件により建て直しを余儀なくされたマンションもありました。この事件をきっかけに建築確認申請が厳しくなりました。 この年に当社が取り組んだことを挙げてみます。 ●在庫品揃えの強化 未来RM25サイズ 目皿の皿のみ ビニマス200サイズ スリムダクトのホワイト色 塩ビ合フランジ ・・・  など在庫アイテムをかなり増やしました。 ●工具展示会の初開催 この年に初めて会社の駐車場で開催しました。翌年からは近所の渋谷本町区民会館を借りて実施しています。 この工具展は今でも毎年行われています。 ●工事部新入社員を採用 職業訓練校に派遣  東京都立城南職業能力開発センターの配管科に6か月間通ってもらいました。今では大きな戦力です。 ●物流部門のカイゼン提案制度 物流会議の中で、カイゼンした方が良いと思うポイントを各社員に挙げてもらい、順次実施していきました。 棚の配置、倉庫の蛍光灯の増設、棚のラベルをわかりやすくする、重量ラックの設置 etc・・・  1年間で55項目のカイゼンが行われました。 ●倒産保険の加入 当社は得意先の倒産による貸し倒れが比較的多い会社でした。 これらを保全するために倒産保険の加入を決断しました。 平成19年2月にはおかげさまで当社創立55周年を迎えました。 OBの皆様にも集って頂き、お祝いを行いました。 (皆さん今よりちょっとずつ若い!! 懐かしいお顔も見えます)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成19年度(2007年度)】

投稿者:落合智貴 アメリカのサブプライムローン問題がヤバそうだぞ、と囁かれる様になってきたのがこの年でした。その後リーマンショックを招きます。 この年は耐震偽装問題の影響で建築基準法が改正され、建築確認申請に大変時間が掛かり、着工にも大きな遅れが出るという事態が起きました。 2008年の北京オリンピックを間近に控え、原料素材の上昇が商品単価を大きく押し上げたのもこの年の特徴でした。 当社としては新しい試みが多かった年でもあります。 1、TDYリモデルスタイルフェアと松下電工汐留ショールームの見学をバス動員にて実行 2、初めての「主力メーカー商品説明会」をTOTO新宿スーパースペースで実施。 (この年以来毎年1月に説明会を続けています。) 3、会社ユニフォームとしてジャンパーと作業着を作成 4、ヤクルト球団の年間ボックスシートをやめる(現在は巨人戦に切り替えています) 5、年間売上1000万円以上のお客様に年末ジャンボ宝くじを進呈 6、インターネットバンキングを開始 業績の方はまずまずで、バブル崩壊以来最高の粗利益率を上げることができました。 会社創立55周年記念行事として、ダイキン滋賀工場見学会と京都観光に行きました。 京都御所や金閣寺、嵐山を観光したのも楽しい思い出になりました。  (55周年記念旅行 京都御所にて記念撮影)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成20年度(2008年度)】

投稿者:落合智貴 当社は昭和37年(1962年)に松下電器産業の代理店となりました。当時の管材業界では松下電器の代理店はまだなく、管材業界として初めて代理店となった、数少ない会社の一つでした。松下電器の代理店であることは当時としては対外的な信用が非常に大きく、当社の創業者で私の祖父はこれを大変誇りに感じていました。 昭和40~50年代は代理店としてナショナル製品の拡販に大変力を入れていたのですが、平成に入ってからは力及ばず販売量が減ってきました。その間、松下電器は松下電工との合併や、ナショナルブランドを全廃しパナソニックブランドに統一するなど組織再編が進み、当社も代理店としての地位を平成20年度をもって返上することになりました。 この年当社は「圧倒的な品揃えとフレキシブルな配送体制を確立しスムーズな流通体制をご提供すると共に、メーカーとお客様を主体的に引き合わせ新商品等の情報を積極的にご提供する。」との経営方針を立てました。 松下電器を中心とした住宅機器商品だけでなく、配管材料の販売に軸足を重く置いていくという決意を表したものであり、配送社員の一人当たり配送件数を増やしていくことなどに力を入れました。 品揃えや物流体制の効率化が重要な課題であるということを改めて確認した年になりました。 比較的安定した業績を上げた平成18~20年度でしたが、群馬のゼネコンI社の倒産による連鎖で、当社の得意先も2社倒産しました。この時の貸倒れは4000万円を超え、さらにこれ以降リーマンショックの苦しみが始まります。 (この年東管機組合の理事に就任。第四支部新旧理事で記念撮影)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成21年度(2009年度)】

投稿者:落合智貴 前年度9月のリーマンショックを受けて、一年を通して打撃を受けたのがこの年度でした。 経済のいろんな指標が3割減になったという印象です。 住宅着工件数は前年の109万戸から79万戸へと28%減になりました。 この年以来、未だに100万戸への復活は成し遂げられないままです。 当社の業績も売上高前年比23%減。粗利益で31%減と大きく落ち込みました。 こうなると黒字を出すのは至難の技です。この年以来3期連続の本業での赤字が続くことになります。 本業の経常利益は約1800万円の赤字。リーマンショックによる得意先の倒産による貸し倒れの計上を含めると、全社の税引き前利益はなんと4600万円以上の赤字になりました。 当社歴史上最大の赤字だと思います。今振り返ると、バブル崩壊よりももっと苦しい3年間だったと感じます。 政治の世界では自民党が下野し、民主党の鳩山政権が誕生しました。 脱ダム宣言など、公共投資の大幅な削減がなされ、建設業界はリーマンショックとのダブルパンチを受けたことになります。 現場が少なくなり、数少ない現場を多くの業者が奪い合いました。価格競争が大変激しくなり、価格を下げても下げても他社がもっと下げてくる。そういったいわゆる「デフレスパイラル」が施工会社でも、流通・メーカーでも進んでいくことになります。 建設現場に従事する職人さんの数もこの年を境に減少し、今の人手不足に繋がっているのではないでしょうか? かつてのように職人が“稼げる仕事”ではなくなったということだと思います。

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成22年度(2010年度)】

投稿者:落合智貴 INAXやサンウエーブ、トステムなど5社が合併しLIXILが誕生したのがこの年でした。パナソニック電工がパナソニックと合併すると発表されたのもこの年です。リーマンショックからの復活を目指して各社生き残りに必死になっている様子が分かります。 当社では物流部門や経理部門での人員の交代や営業部門で初めての女性の採用など動きがありました。業績は多少の回復は見られたものの2期連続の赤字となり、依然厳しい状態でした。 この年度の最も大きな事件と言えば平成23年3月11日の東日本大震災です。当社社員の義母家族も残念ながら津波の被害でお亡くなりになりました。 地震直後はスーパーやコンビニの商品が棚から消えましたね。 そしてガソリンがなくなりました。ガソリンスタンドに車が列をなしたことをご記憶の方も多いと思います。 その影響で各社配送がままならず、一時は塩ビ管などの入手が困難になりました。 計画停電があり営業できない問屋さんがあったり、メーカーも操業できないこともありました。東北地方では部品メーカーが多く、トイレ製品・空調機・電気温水器・エコキュートなど完成品メーカーが商品を作れないといったこともしばらく続きました。 メーカーから流通に至るサプライチェーンがいかに大切なものであるかを思い知らされましたね。 地震の前はオール電化の推進が進んでいましたが、地震以後はガスが見直されました。 福島原発の廃炉にもまだまだ時間がかかりそうです。 東日本大震災によって日本の景色がいろんな意味で変わった、歴史的な事件だったと思います。 (当社が所有しているマンションの壁にも地震の影響で多数の亀裂ができました)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成23年度(2011年度)】

投稿者:落合智貴 2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災の直後に始まったのがこの年度でした。本来ならリーマンショックからそろそろ立ち直るかという期待感があった年でした。しかし福島第一原発の事故の影響による計画停電がありました。東北地方の主に部品メーカーの被災により製品メーカーの生産にも大いに影響が出ました。給湯器や電気温水器、エアコンなどのプリント基板が作れず納期が大幅に遅れたと記憶しております。経済全体にブレーキが掛かりうまく回らなくなったという感じでした。多くの見知らぬ人々が日々コツコツと仕事をしていることがいかに世の中の役に立っているのかを思い知らされましたね。当社としては3期連続の赤字となり大変危機感を強めた一年になりました。 社員の事故や怪我、病気も大変多い年でした。工事部社員の高所落下による骨折事故。その他盲腸手術による入院、バイク事故による骨折、軽い脳こうそくによる入院など複数の社員が大きなアクシデントに見舞われました。今では皆元気に働いていますが健康が何より大事であるとの実感を得ました。 悪いことばかりの様ですが、良いこともありました。2012年2月19日には会社創立60周年を迎えることができました。企業は一代30年が目安とすると、いよいよ三回目の30年がスタートすることになります。私は早すぎた三代目でしたが、これからが本来の三代目の時期になるなと気を引き締めた事を思い出します。 (創立60周年パーティーにはOBや仕入先の方々も駆けつけてくれました)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成24年度(2012年度)】

投稿者:落合智貴 リーマンショックからの不況が長期化し、メーカーの再編が多く行われたのがこの年度でした。新日鉄と住友金属の合併、三菱樹脂の塩ビ管事業の積水化学工業への事業譲渡、リケンとCK金属の合弁会社設立などがありました。供給過剰の時代が長く続き、価格競争の激化と共にメーカーさんの収益力が大幅に落ち込んできたことの表れだと思います。バブル崩壊以降のデフレがこういう結果に結びついているのですね。 当社としては年度初めに営業担当の大幅交代を行い臨みました。担当替えの目的は色々なタイプのお得意様を経験することで社員の成長を促す事でした。売上の大きなお得意様の担当をほとんど交換するものであり、反対意見も不安もリスクもありました。しかし実行の結果、3期連続の赤字からようやく脱却し、売上前年比125%を達成し黒字化を果たしました。慣れない担当先との取り組みを頑張ってくれた社員の皆さまのおかげだと思います。これを受けて、5年ごとに担当交代をする方針を打ち出しました。今後もレベルの高い営業マンを多く育て、会社の力をより強くし続けていきたいと思います。 会社設立60周年を記念して行われたテラル(広島県福山市)・ノーリツ(兵庫県明石市)への工場見学兼旅行会が行われたのもこの年です。多数のお客様にご参加頂きました。修復中の「姫路城」や、阪神大震災の教訓を展示した「人と防災未来センター」も見学してきました。                           同じく60周年記念社員旅行は3泊4日で沖縄に行ってきました。帰りの飛行機が東京の大雪のため大幅に遅れて冷や冷やしましたが、無事に帰ってこられました。楽しい思い出になったと思います。

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成25年度(2013年度)】

投稿者:落合智貴 第二次安倍内閣がアベノミクスを打ち出し、長いデフレからインフレへの転換点に位置づけられるのがこの年でした。黒田日銀の大胆な金融緩和があり、9月には東京五輪の開催が決定され、リーマンショックからの回復がようやく実感できるようになりました。消費税の5→8%への駆け込み需要があったのもこの年度でした。 当社の業績も2期連続で増収増益となりました。そうなると会社の雰囲気も良くなってきますよね。 当社としては、中小企業のブランド化をどう進めていくかということを模索しました。「スムーズな設備工事現場をお手伝いします」とのコーポレートメッセージを策定しました。日々の社員の行動基準も定め、組織の一体感を高めていくことを目指しました。一朝一夕にはいかないと思いますが、この年にスタートした戦略が知らず知らずに会社の力を強くしていければいいなと思います。 私は中小企業とは弱いものであるという世間の風潮にあまり違和感を持っていませんでした。しかし中小企業のブランド化を勉強していくうちに少し見方が変わったような気がします。中小企業は大企業よりも、組織の統一感が得やすく、トップの方針を浸透させるのもはるかに大企業よりも容易だと思います。また、中小企業はニッチな強みに特化することにリスクが少なく、思い切った戦略がとりやすいのだと感じました。資金力のある大企業の方が大胆な投資ができるかもしれませんが、お金をかけない小さな工夫で素晴らしい会社に“魅せる“あるいは”変わる“方法はアイデア次第でいくらでもできるということも学びました。 “中小企業は決して弱くない!!“ この年に学んだことは大変大きかったと思います。 (写真はLIXIL新宿ショールームの見学会)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成26年度(2014年度)】

投稿者:落合智貴 この年の最も大きな話題は、配管材料のネット通販の開始があります。水道設備工事や空調工事では材料が今すぐ欲しいというニーズが大変大きいと思いますが、材料がどこにあるかが分からないといった悩みも多いです。 近年ITの普及や、スマホの普及で特に若い世代の方々はネット検索で何かを調べることが日常になっています。当社の6000アイテムという豊富な在庫の存在をWEBで公開することによって一人でも多くの方に『在庫があって助かった!』と言って頂けたらと思い、設備工事部材専門ネット通販サイト「設備ロジス.com」を立ち上げました。 既に配管材料を扱うサイトは多数存在していますが、お取り寄せに数日掛かる商品の掲載が多いです。“全ての商品が在庫即納品”であるというのが当社の大きな特徴です。また、すぐに欲しいというニーズにお応えするためにネットプロテクション社を利用した“コンビニ後払いシステム”をお勧めしています。その他カード決済や代引き決済なども後から機能を追加しました。また、東京都内近隣の方には“ご来店引取も可能”(お引取の場合は現金決済限定)となっております。新宿の都心に近い立地を生かせていけたら嬉しいです。 平成26年4月にサイトオープンした当初は月に1~2件のご注文しかありませんでしたが、1~2年後には毎日のようにご注文やお問い合わせを頂けるようになりました。設備工事関係の方だけでなく、マンション管理・ビル管理・リフォームの関係の方のご依頼が多いように思います。また日本全国から注文頂けることもうれしいことです。 新しい顧客と毎日のように出会えるこの事業がどこまで広がっていくのか、挑戦を続けていきたいと思います。

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成27年度(2015年度)】

投稿者:落合智貴 アベノミクスも4年目に入りマイナス金利も実施されましたが、景気の回復を大きく実感できるには至りませんでした。横浜のマンションが傾く、いわゆる「杭打ち問題」が発覚したのもこの年です。 一方インバウンドが年間2000万人近くになり東京五輪に向けた宿泊施設の供給にも限界が見られ、民泊の法制度が検討されたり、ホテルの建設計画が進められるなど、観光立国への転換が進められたのもこの年です。 かつて日本の高度経済成長は工業製品を輸出することで支えられていました。 しかし工場の海外移転が進む中で、日本経済を支える柱の一つが「観光」になった。 そんなことを感じられる年でした。 当社は組織の在り方を一歩踏み出す年になりました。 社員の中間層が40代になり、20代の若手が成長していく中で、初めて部長・課長のポストを新設しました。 ベテランにやりがいと責任を感じられる組織。 若手にやる気と希望を感じられる組織。 そんな組織に少しでも近づけていきたいとの思いでした。 また社員の投票で会社のイメージカラーを決めました。 約3か月を費やし、投票を重ねて皆で選んだカラーが紫と黄色の組み合わせです。 色が決まったのち当社が古くから使っているロゴマークに色を付けて立体的にしたものを作成し、ホームページやトラックの後ろに使っています。 「スムーズな設備工事現場をお手伝いします」とのコーポレートメッセージと共に、皆で決めたカラーが多くの人の目に留まり、企業イメージのアップにつなげたい。 そんな思いが詰まっています。

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落合住宅機器の歴史を辿る【創業~昭和29年度(~1954年度)】

投稿者:落合智貴 戦後、GHQの占領下において、日本の新しい国づくりが進められました。 昭和26年9月8日にサンフランシスコ講和条約が吉田茂首相により調印され、昭和27年4月28日に発効されました。当社が設立されたのはこんな時代背景のころです。    【サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂首相】 当社の創業者であり私の母方の祖父である落合義作は大正2年1月に埼玉県狭山市で生まれました。 狭山の落合家は江戸時代から続く土地持ちで、造園業などを手掛けておりました。 次男であった義作は親からもらった金で東京の初台に土地を買い、そこを住まいとしました。 それが現在の本社となっています。 慶応大学経済学部を卒業後、芳沢機工という鉛工事などにかかわる会社に就職。 戦争では兵隊として中国などに行きました。 復員後、証券会社・通産省化学肥料部・小企業の共同経営などを経て、昭和25年11月に独立。 昭和27年2月19日に ㈱落合鉛工業所 を設立したのが現在の当社です。 自宅を会社とし、最初は少人数でスタートしました。 会社の庭先には社員の住込み寮も作り徐々に社員を増やしていきました。 建場(たてば)という一種の「鉄くず問屋」のようなところに行って鉛を購入し、それを鉛管メーカーで製品に替えてもらい、水道工事業者に販売する。そんなことから商売を始めました。 鉛は相場によって価格が上下する為、相場の読みも大事だったようです。 当時の朝鮮戦争の影響で鉛相場が急騰し、大きく儲けたことが創業時の勢いをつける要因になりました。   【会社発足時の定款と公証人役場の認証書が現在も残っています】

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和30~33年度(1955~1958年度)】

投稿者:落合智貴 昭和28年の12月に㈱落合鉛工業所(おちあいなまりこうぎょうしょ)から落合鉛工㈱(おちあいえんこう)に社名変更し、以来昭和45年3月まで16年半の間この社名を名乗っていました。 今では鉛は人体によくないということで、給水管には使われていませんが、当時の水道管は給水・排水共に鉛管が主流でした。 現在では管工機材という言葉であらゆる水回り商材を総合的に扱う販売形態が主流になっています。 しかし昭和20年代当時は鉛管屋、鉄管屋、バルブ屋、水栓屋、ポンプ屋の様に専業店に近い形が多く、販売店のお互いで商品を売り買いしていたようです。 販売の資格が東京都水道局より与えられ、当社も鉛管をスタートに各種指定販売店の資格を取りました。 昭和30年7月 東京都水道局指定鉛管販売店 昭和31年1月 東京都水道局指定銅管・ビニール管販売店 昭和31年4月 鉄管・継手類、バルブコック販売開始 昭和32年5月 水栓器具類及付属品販売開始 水道局に商品を持っていき、商品に認定の刻印を打ってもらうという仕事もあったそうです。 当時の車はオート三輪。 パイプを積むと車がひっくり返ることもあったそうです。 戦後の混乱から少し落ち着き、給水や排水のインフラを早く整えなければならない。 そんな時代の中で、現場に重たい鉛管や水道資材を運ぶ仕事は肉体労働の大変な仕事だったでしょう。 鉛管の専業販売店から管工機材の総合販売店へ移行し、売上を拡大していく。 それが当時の経営課題だったのだと思います。      【昭和30年代の日本】

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和34~37年度(1959~1962年度)】

投稿者:落合智貴 昭和32年2月に就任した岸信介首相の最大の課題は日米安保条約改定でした。 昭和35年のいわゆる「60年安保闘争」の末、6月に新安保条約成立と引き換えに岸首相は退陣します。 戦争の記憶がまだ強く残っている時期で、戦争はこりごりだという多くの国民の声。 現実的に日本をどう防衛し、平和な社会をどう作っていくかというイデオロギーの対立。 そういったものが複雑に絡み合い、様々な人たちが日本のあり方を真剣に考える、そういう時代だったのだと思います。 当社は昭和37年4月に松下電器産業㈱と代理店契約を結びました。 「ナショナル」のブランドで電気器具を中心に製造していた松下電器は街の家電店を「ナショナルショップ」として育成し、家電の売り上げを拡大していました。 家電業界で業績を伸ばしてきた松下電器が管材業界に目を付けたのがこの頃です。 当社は松下電器の代理店に管材業界として初めて選ばれた数社のうちの一つであり、当社の落合義作創業者はそれを大変誇りに思っていました。 松下電器の代理店であることが対外的な信用に大きくつながるんだとよく話していました。 松下電器のポンプや浄化槽、東洋陶器(現TOTO)の衛生陶器などの販売を始め、商材を広げ始めたのが昭和37年頃からだったようです。               【経営の神様 松下幸之助。松下イズムは当社の経営理念にも大きく影響しています】

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和38~41年度(1963~1966年度)】

投稿者:落合智貴 昭和39年の東京オリンピックを契機に日本の戦後復興は着実に進んでいました。 新幹線や高速道路、様々なインフラが東京オリンピックを目標に建設されました。 池田勇人首相は経済に重きを置き「所得倍増計画」を掲げて高度経済成長の基礎を築きました。 池田首相は体調不良を抱えながら東京オリンピックを迎え、閉会式の翌日に退陣を表明し、翌年昭和40年に亡くなったそうです。 【昭和40年東陶特約店会 前列右から3人目が落合義作社長】 当社も設立以来10年以上が経過し、会社の体裁を整えつつあった時期だと思います。 創立当初50万円だった資本金は昭和40年には400万円まで増やしています。 この頃は増資によって財務体質を厚くしていくのが目標だったようです。    昭和37年に松下電器産業の代理店になり、昭和42年5月には「落合ナショナル管工事店会」を発足させました。 松下電器産業と当社・管工事会社が三位一体で取り組もうとの決意の表れです。 鉛管の販売が主業でしたので、当時の社名は落合鉛工株式会社ですが、この頃から、東陶やナショナルなどの衛生機器・住設機器に本格的に取り組みはじめました。

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和42~45年度(1967~1970年度)】

投稿者:落合智貴 アメリカのニクソン大統領と日本の佐藤栄作首相の合意により沖縄の日本への返還が決まったのがこの頃です。 終戦から20年以上が経ち“戦後が終わった“と感じた人が多かったのかもしれません。 日本の経済は順調に成長していました。 当社は昭和45年3月に社名を「落合鉛工㈱」から「落合住宅機器㈱」に変更しました。 当社にとっての創業事業である水道鉛管が使われなくなってきており、“鉛の時代が終わった“ということで社名を変えました。 昭和37年に松下電器産業の代理店になって以来、ナショナル製品の拡販に力を入れ、“これからは「住宅機器」の時代である”というのが当時の落合義作社長の判断だったのだと思います。素敵な住宅機器で暮らしがどんどん便利になっていく。日本人みんながそんな夢を描いていた時代だと思います。      【建て替え前の古い社屋前 女性社員5人】     【昭和44年10月の伊東温泉社員旅行】      【昭和45年2月 創立記念食事会にて】       【落合ビル建替時の世田谷弦巻の仮事務所】

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和46~48年度(1971~1973年度)】

投稿者:落合智貴 佐藤栄作総理が長期政権を終え、田中角栄が若くして首相に上り詰めたのがこの頃です。 時代はまさに高度経済成長の進行中でした。       【新築当時の落合ビル】     【私の父(右)は昭和46年に入社しました】 創業以来当社の本社は木造平屋であり、社長自宅と社員寮を兼ねてやっていたそうです。 創業して約20年が経ち、ようやく鉄筋コンクリートの本社ビルを建てようということになりました。 当時は新宿の高層ビルも京王プラザホテルや住友ビルなどが初めて建ったころであり、当社のビルが7階建てですので、周りと比べるとかなり大きく感じたと思います。 日本はまだまだ住宅の供給が足りず、賃貸住宅併用の本社を作ったのは時機を得た決断だったと思います。 1階に事務所兼倉庫を構え、2階から7階を18所帯の賃貸マンションにしました。 これが現在の落合ビルの出発点です。賃貸マンションの名前は「ベルフラワーコーポ」。 落合家の家紋が「桔梗(ききょう)」であることからその英名が付けられました。           昭和48年の落合ビルの落成式には多くの来賓が詰めかけ、落語家の方を呼んでの催しもあったそうです。 創業者の落合義作社長にとっては誇らしい瞬間だったのではないかと思います。

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和49~51年度(1974~1976年度)】

投稿者:落合智貴 第一次、第二次オイルショックの影響を受けたのがこの頃です。 トイレットペーパーをスーパーで奪い合う当時のシーンをテレビなどで見ることがありますが、石油の値上がりによって管材業界で特に大きな影響を受けたのがビニール管の供給です。 ビニール管の買い占めや売り渋りなどが発生し、商売倫理が問われた事件でした。 お客様に「オイルショックの時に売ってくれた」と感謝されるか、「オイルショックの時に売ってくれなかった」といつまでも悪口を言われるか。おそらく業界各社でいろんな反省があったのだろうと思います。      【当時の正月の集合写真】      当社は松下電器産業の代理店としての地位を大切にし、高度経済成長の波に乗って着実に売り上げを伸ばしていました。昭和51年度の売上は初めて6億を超えました。当時の通貨価値を考えると今の6億円よりはもっと忙しかったんだと思います。 写真は松下電器産業の代理店会「昭和51年度ナショナル住設共栄会」でのものです。 前列中央にはパナソニックの創業者であり「経営の神様」とも称される松下幸之助氏。 最後列中央の背の低い人が当社の落合義作社長です。 歴史上の人物と一緒に写った貴重な写真です。

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和52~54年度(1977~1979年度)】

投稿者:落合智貴 巨人の王貞治が756号ホームランを打ったのが昭和52年(1977年)でした。その頃は夜のテレビと言えば巨人戦を見ていた家庭が多かったのでしょう。職場でも前夜の巨人戦の話題が多かったのだと思います。当社でも松下電器産業とその代理店で草野球のリーグ戦をやっていました。私も小学生のころよく父がピッチャーをやっているその試合を応援に行きました。いまでもその時のトロフィーが会社に残っています。当時は社員の平均年齢も若く、野球チームができたんですね。今では9人そろえるのは至難の業です。           【落合住宅機器のユニフォームはこんな感じでした】      当社は昭和48年に本社を建替え、新しい事務所での仕事に慣れてきた頃でしょうか。 当時の写真をみるとモノが少ないと感じます。パソコンもなく書類も少なくスッキリした印象があります。電話も全員にはなかったかもしれません。同じ事務所なのに雰囲気が違うのは40年の時間が流れた証拠といえるのかもしれません。                 【当時の落合義作社長 社長室も今よりスッキリしていました】

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和55~57年度(1980~1982年度)】

投稿者:落合智貴 昭和57年2月19日の金曜日、会社創立30周年の当日に新宿の京王プラザホテルで「創立30周年記念式典」を行いました。当時私は小学5年生でしたので出席していませんが、カセットテープの音声と写真のアルバムが残っています。お得意様や仕入先様など200名以上が集まり立食形式のパーティーでした。 中山隆博専務(私の父です)が司会を務め、落合義作社長(私の祖父)が挨拶。 ご祝辞として当時のお客様代表の千代田設備工業の横田社長様、仕入先様代表で松下電器産業の藤岡所長様のご挨拶。橋本総業の橋本政雄社長様が乾杯のあいさつをしました。 パーティーの余興として3名の歌手に歌を披露していただき、中締めはお客様の細谷工業の細谷社長様に務めていただきました。 創業者にとって30周年は大きな区切りであったと思います。戦後の混乱期に鉛クズを集めて、鉛管に替え、水道屋さんに鉛管を売るところから事業が始まりました。戦後の高度経済成長に乗り、この当時で従業員17名。売上高を10億円に初めて乗せたのがこの年でした。 創業者の落合義作は慶応大学時代の同級生が皆一流企業に就職し活躍しているのに負けたくないという気持ちが強かったようです。30年間で会社の基礎を作り、後継者を育て、事業が永く安定して経営できる基盤を作り上げた感慨はひとしおだったかと思います。 ここからさらに34年間事業は存続しています。日々コツコツと仕事をしてきた従業員の皆さんの努力も忘れてはなりません。会社の基礎を作った先人たちに感謝したいと思います。 【前列に着席しているのが役員 後列以降が会社の創業期を支えた社員の皆さん】

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和58~60年度(1983~1985年度)】

投稿者:落合智貴 昭和58~60年度は私が中学生の3年間です。 中2の時に祖父落合義作(当時社長)の自宅を二世帯住宅にリフォームし、引っ越しをしました。父の養子縁組とともに中山智貴から落合智貴に苗字が変わるのは子供心に複雑な心境でした。昭和60年8月には祖母落合照子が亡くなったのは祖父にとってはショックな出来事だったと思います。私は中2から陸上部に入り、長距離チームの駅伝メンバーとして練習の日々でした。 【後列中央が中2の筆者 初代、2代目、3代目が揃った写真はあまり残っていません】 政治の方は中曽根内閣の長期政権の最中です。日本専売公社がJTに、国鉄がJRに、日本電電公社がNTTにと民営化を進めたのが中曽根内閣の功績だと思います。 日本戦後政治の総決算を謳い外交でも存在感を確立していったのがこの頃でしょう。 当社は8~9億円の売り上げを確保していましたが、ナショナル製品の拡販に力を入れている時期であり、利益率は今より4~5ポイント低かったです。1000万円以上の貸倒れが時々発生し、なかなか内部留保がたまらないという状況でもありました。

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落合住宅機器の歴史を辿る【昭和61~63年度(1986~1988年度)】

投稿者:落合智貴 昭和もだいぶ遠い過去になってきましたね。 当時の竹下内閣は「ふるさと創生」と称して市町村に1億円づつ配る政策をとりました。各自治体は工夫を凝らした使い方を試みましたが、結果はいまいちだったようです。財政難の今では考えられない政策ですね。 当社は昭和27年の創業以来36年間社長を務めてきた落合義作に代わり、昭和63年に落合隆博が二代目社長に就任しました。私の父である隆博は昭和46年、母との結婚を機に当社へ入社し、専務取締役として現場で指揮を執っていました。当初は旧姓の中山専務を名乗っていましたが、昭和59年に落合家の跡取りとして養子縁組し落合専務となりました。 当時の父は入社17年、年齢が48歳と創業者が二代目にバトンを託すのにちょうどよいタイミングだったのだと思います。当時祖父である落合義作は「二代目が会社を伸ばすんだ」と言っておりました。会長に退き、ゴルフや旅行にと悠悠自適の生活を楽しめると感じていたと思います。この時点ではまさか二代目に先立たれるとは思っていなかったでしょう。 私は当時高校生。高校野球に打ち込んでいました。自分が三代目であることを薄々意識しだしたのがこの頃だったのかもしれません。 【前列右から2番目が初代義作、後列左が二代目隆博、その右が三代目筆者(18歳)】 父は自分なりのやり方で会社を良くしていこうと意欲に燃えていたのだと思います。お客様を大事にする精神、社員を大事にする精神を大切にしていました。父が社長を務めた7年間は当社の歴史の中でも最も業績の良い時代でした。この頃は年間売上が9億円以上で、経営は安定軌道に乗っていたと思います。今となっては大変うらやましい繁栄の7年間でした。

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成元~2年度(1989~1990年度)】

投稿者:落合智貴 昭和天皇が崩御し、小渕恵三官房長官が「平成」の文字を発表し元号が変わりました。平成生まれの若者にとってはその出来事もすでに歴史の一コマにすぎないでしょう。竹下内閣は自民党念願の消費税の導入を平成元年4月に成し遂げました。当初の消費税は3%。8%まで上がっている今となっては小さい税率に感じますが、消費税導入に当たっては世論の反対も大きく、私にとって政治が生活に密着しているものだと初めて実感した出来事でした。そして、リクルート事件が発覚し、大物政治家が次々と未公開株を受け取っていたことが分かり、政治不信の影響から竹下内閣は退陣し、宇野宗佑首相が誕生します。しかし女性問題から2か月で退陣し、よりクリーンなイメージの海部俊樹内閣に代わります。   経済の方は株価や土地価格がどんどんと上昇を続け、日本が世界に冠たる経済大国であることを自他ともに認め、海外の不動産や会社を買収するようになりました。日本に対するバッシングが起こるようになったのもこの頃だと思います。   私の父 落合隆博は昭和63年に二代目社長に就任しバブル経済の時流に乗って好業績を残していました。平成2年度の経常利益は4233万円と過去最高。この頃の父は毎年4月になると決算書を作るのが楽しくてしょうがないと嬉しそうにしていました。お客様をゴルフや旅行にご招待し、皆で利益を分け合っていた。そんな良き時代だったと思います。   【松下電器MACS PLAZAを落合会で見学したときの様子】  

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成3~4年度(1991~1992年度)】

投稿者:落合智貴 この頃はまさにバブル絶頂期。当社の売り上げは平成3年度に12億4741万円を達成し、この年が当社史上最高売り上げとなっています。 昭和42年より「落合ナショナル店会」として松下電器産業と当社とお得様を会員とする会で活動をしておりました。この24年の歴史に幕を閉じ、松下電器以外の仕入れ先を入れた新生「落合会」に会を変更したのが平成3年9月です。さらに会を発展させようとお客様を旅行にご招待したりしていました。 また、落合ゴルフ会として東京読売カントリークラブでゴルフコンペを毎年開催していました。名門東京読売でプレーできるということで、お客様や仕入先の皆様には今でも懐かしがる方もいらっしゃいます。 政治の世界では海部内閣から引き継いだ宮沢内閣は、湾岸戦争における日本の経済協力が世界から評価されなかったことを受けて「PKO協力法」を成立させました。 しかし東京佐川事件など政治不信の高まりが自民党に対する不信につながり、自民党が下野する結果になります。 この頃は高度経済成長のゴールといえるのではないかと思います。 貧しい日本がお金持ちになり、多くの人が中流意識を持って豊かに生活できる国になった。多くの人がそう実感できたのだと思います。 株や土地で大儲けをする人も増えて銀座などの繁華街は大騒ぎだったようですね。 一方、当時私はまだ大学生。バブルの喧騒を横目に、住み込みの新聞配達をしていました。 【平成3年10月 社員旅行の様子 善光寺】

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成5~6年度(1993~1994年度)】

投稿者:落合智貴 バブルのピークは過ぎたものの、しばらくすればまた元に戻るだろうと楽観的に考えられていたのがこの頃だったと思います。 宮澤内閣を最後に38年間続いた自民党政権が幕を閉じ、日本新党や新生党を中心とする8党連立の細川内閣が誕生。国民福祉税構想や佐川急便グループからの借入金問題などが重なり、8カ月余りで退陣することになります。 その後を引き継いだ羽田内閣も社会党の離反などから政権が安定せず、わずか64日での退陣となり、自民・社会・さきがけ連立の村山内閣が発足します。社会党が総理を出すのは46年ぶりの事でした。 戦後の高度経済成長が終焉し、国民も変化を求めた結果なのでしょうか? この政権交代は時代の変わり目の象徴と言えるのかもしれません。 当社の業績もバブルのピークからどんどん売上が下降を始めました。平成5年の12月には社長である父 落合隆博が大腸の手術をし、当時大学4年生だった私は今後の家族や会社について大きな不安を抱えていました。 平成6年に私はユアサ商事に入社し空調機や換気扇などの受発注を担当しておりましたが、常に父の病状を気にしながらの生活でした。 バブルのピークに12.5億円あった売上は平成5年度には9.3億円。平成6年は6.9億円と下がり、平成6年度は1677万円の大きな経常赤字を出しました。 【お客様と仕入先様とをつなげる落合会が恒例行事でした】 (左から二人目が当時の落合隆博社長)

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落合住宅機器の歴史を辿る【平成7年度(1995年度)前篇】

投稿者:落合智貴 平成7年1月には阪神淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件。 バブルが崩壊し、リストラという言葉も聞かれてくるようになった頃です。 当時の社長であり私の父である落合隆博はこの年度の前から入退院を繰り返していた為、ユアサ商事の入社からわずか1年で私は退職し、5月から落合住宅機器に入社することになっていました。 しかし、4月の下旬には父は入院し、社長不在の状態になってしまいました。 私はユアサ商事の仕事を午前中に切り上げ、病院で父から印鑑を預かり、会社で必要な事務を執り行いました。 5月に入り私が正式に入社してからも父の病状は悪化を辿り、指示を受けることもできなくなりました。 3月決算であるため税務書類を提出しなければならず、税理士とも連携を取りながら何とか5月末の申告期限には決算書を完成させました。バブル崩壊以降初の赤字。経常損失は約1600万円の苦しい決算です。 そして6月4日の日曜日、2代目社長である父は大腸がんのため入院先の病院で亡くなりました。 55歳の若さでした。 葬儀の後、創業者であり当時会長であった祖父 落合義作と私は今後の体制について話し合いました。 82歳の創業者が社長に再登板するのか、24歳の経験のない私が社長をするのか。 祖父は親族や親しい業界関係者の方々に相談し、悩んでおりました。 私がいきなり社長では大変だろうということで一時は私が専務でスタートしようかと決まりかかった時もありました。しかし最終的には私が社長で行くことになりました。 大学を出て一年余り。入社一カ月余りで私は落合住宅機器の三代目代表取締役社長に就任することになりました。 会社の存続を賭けた戦いがここから始まります。 【中央が落合義作会長(当時)、その左が筆者、父 隆博の遺影を抱えているのは母 由里香】

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落合住宅機器の歴史を辿る【序章】

投稿者:落合智貴 ブログの投稿も4回目となり少し慣れてきました。今回から一つのシリーズものを始めてみたいと思います。題して「落合住宅機器の歴史を辿る」。 私が入社し、社長になったのが1995年(平成7年)ですから、今年はちょうど20年目の年になります。このシリーズでは私が体験した20年を振り返っていきます。20年分の歴史を書き終えた後は、二代目、初代の時代のことにも触れていきたいと思っています。ブログは新しく投稿したものから上に掲示されますので、最近のお話から始めて、毎回少しずつさかのぼっていきたいと思います。初めて読んで頂いた方にも上から順に読んでもらえれば時系列になるので読みやすいかと思います。 三代目の私が何故若くして社長に就任したのか。二代目の父が婿養子として社長に就任した経緯。初代の祖父が会社を立ち上げた経緯。60年以上に渡り会社を支えてきた社員たちの頑張り。そんなことを私自身も調べながら筆を進めていきたいと思います。3回に一回位の割合で「歴史を辿る」シリーズを投稿していきたいと思いますので、ご興味のある方は読んでみてください。 次の写真をご覧ください。 右から二番目が当社の創業者で私の母方の祖父落合義作。その左が私の父方の祖父中山隆一。この二人の出会いが今の私の存在につながっています。私が二人の関係を初めて意識したのが中山の祖父のお葬式の時でした。落合の祖父が男泣きをしているのを見て「二人のおじいちゃん達は親友だったんだ」と初めて理解しました。二人は慶応義塾大学の同級生でした。落合の祖父は私に対し「おまえは落合と中山の合作だ」と嬉しそうに話していたことがありました。この話の内容を詳しくお伝えするのはまだまだ先になりますが、ひとまずは最近のお話から進めていきます。次回をご期待下さい。

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